飛翔

日々の随想です

養護施設で


 長年塾の教師をしてきて、さまざまな環境の子供達とふれあってきた。
 母親が焼身自殺したという悲惨なまでに悲しい出来事を抱えている子や、DVの親、離婚を重ねる親のこどもなど。
 勉強を教えるだけで何もできない自分が悔しく哀しかった。塾へ来ているだけでも楽しくお腹のそこから笑えるように、授業に工夫を凝らしてみたりした。その結果、みんなからもらった私への感想は「おもしろい先生」だった。
 英語の授業では歌をとりいれて輪唱した。歌うなんて嫌だと言いながら、みんな競うように大声で歌いだしたときは私のほうが嬉しくなった。
 そんな教師生活にピリオドを打った今、新聞やテレビで報じられる虐待やネグレクト(子育て放棄)、生活能力のないまま出産し,子供を育てられないから施設に預ける若い親。そんな様子を見るに付け、私に何かできないだろうかとの思いが積み重なる。
 そこで今日は地域の養護施設に出かけてみることにした。カウンセリングの必要性はないだろうか?子供たちの勉強のお手伝いができるのではないかとのおもいからだ。

 養護施設は虐待や片親だけの環境で育てられない子ども、誰も面倒を見る人がいないで放置されたままの子供が30人も施設で生活していた。施設は大変立派な建物で、内部は明るく、清潔で、訪問者の靴箱は一回ごとに消毒がなされ子供たちに雑菌が蔓延しないよう神経を使っていて驚いた。
 子供たちが自立できるよう、生活態度、世の中の仕組み、言葉遣いまできめ細かな配慮がほどこされていた。

 3時過ぎに施設を見学に行ったときは、ちょうど園児たちのお帰り時間で賑わっていた。
 みんな誰がきたのか、自分の親なのか?興味ありげに近寄ってくる園児もいた。
 
 カウンセラーの需要はあるのかないのか代表に伺うと、心理面よりも、先ずは日々密接に生活を共にしながら「家族、親子」のような関係を施設の中で構築して行くことが先決だとの回答だった。
 私も幼い子どもが親から離れて暮らす心細さや、悲しさや、虐待された心の傷を抱えながら生きていく上には、「生活」する大切さ、皮膚感覚、血肉が通った日々を確保することのほうが先決だと痛感した。
 ここで働かせてもらおうと思ったけれど、パート感覚でこの施設で働いてはいけないように感じた。
 全身全霊でぶつかっていかないと、この施設では、働いてはいけないと思った。
 幼い子供の泣き声を耳にしながら帰路についた。