飛翔

日々の随想です

言葉遣いは心遣い


子供の頃、近所に「くず屋」と呼ばれる人がいた。いらなくなった新聞やぼろきれなどを集めることを生業(なりわい)にしている。 子供がたくさんいて、廃屋のようなところに身を寄せあうように住んでいた。
 その人が時々、ボロ切れや、いらない新聞はないかと近所をまわってくるようになった。
 父は雑誌・書籍、各新聞にいたるまで目を通す仕事をしていたので、家には溢れかえるほどの書籍の山だった。隔月ごとに業者が軽トラックを乗り付けて本や新聞の山をさらっていった。
 だから、いらない新聞などないはずだったが、母はこの人のためにいくらかの新聞をとっておくようになった。
40代のくず屋は外見は粗末な身なりをしていたけれど、容貌はどこか品があって、物静かな立ち居振る舞いをしていた。
 この人がやってくると母はいくばくかの新聞を出し、時々子供たちにと衣類を渡していた。
 「サイズが合わない服があるのだけれど、悪いけれどもらってもらえるかしら?」
 と尋ねるのだった。
 くず屋は「いいですよ」と言って母から衣類を持って帰っていくのだった。
 私は子供ながら、この二人の会話が理解できずに、
 「お母さん、どうしてあげるといわないの?」
 と尋ねた。
 母はあの人は「くず屋」というお仕事をしに来ているので「あげる」というと施しのように聞こえるでしょ。
 「いらなくなった新聞はくず屋さんに買ってもらっているのです。衣類は子供さんたちのためにもらって頂いているのよ」
 と言った。

  「あげる」と言われると貰った方は「ありがとう」と答える。
  対等な関係が微妙にゆれるものだ。
 だから「あげる」という言葉を使うときは繊細な心遣いが必要だと母は思うのだった。

 言葉遣いは心遣いだと知った初めての日。
 母の真っ白な割烹着と幼い私の胸にさざ波のように寄せてくる不思議なものを今でも思い出す。