飛翔

日々の随想です

言葉と心とグリーフ(悲嘆)カウンセリング


 私は子供の頃から陽気なひょうきんものだった。
 近所の人が母にこういった。
 「●●ちゃんが、帰ってくるとすぐ分かるわ。奥さんの笑い声が急に聞こえてくるから」と。
 母が笑うのを見るのが好きだった。母を笑わせようとひたすらひょうきんなことを言ってばかりの子供時代だった。

 今はもう誰も笑わせる必要がなくなった。一人静かな時間をすごすのが何よりの憩いになっている。
 テレビのやかましい音が嫌いだ。お笑い芸人のおかしくもない、芸のない騒音に近いおしゃべりが嫌いだ。
 とりとめもなく、心静かになにかを考える時間を大切に思う。
 旅に出るのもそんな思いの果てのような気がする。日常から離れて見知らぬ土地、見知らぬ国で、出会うさまざまなことに新鮮な驚きや感動を感じる。

 イタリアで足の不自由なおじいさんに道を聞いた。おじいさんは私の手を引いて行き先まで連れて行ってくれた。
 英語が分からないおじいさんと、イタリア語が分からない私。分からないもの同士が分かり合う不思議。
 よたよたと不自由な足のおじいさんに手を引かれて私は歩いた。尋ねた場所にたどり着いて私はおじいさんに感謝の言葉をつたないイタリア語で伝えた。おじいさんは「早く行け!」と手で合図をして笑って、またよたよたともと来た道を歩いていった。

 言葉は何かを伝達するとき必要であるが、心がない言葉は音のつらなりでしかない。意味が通じない外国語でも、伝わることがある。やさしさや、心遣いは言葉を超えることがある。
 子供時代の私のおろかしいばかりのひょうきんぶりも、きっと母には伝わったのかもしれない。大好きな母を笑わせたいという思いが。

 でも残念なことに、悲しみにくれている人にかける言葉を私は知らない。たとえ知っていたとしても、伝えることは難しい。どんなに心をこめても悲しさをうめることはできない。そっと心に寄り添うことしかできない。言葉を超えるものは「時」しかないのだろうか?
 今日は「グリーフカウンセリング プログラム」の半年の講座を受けに行った。
 グリーフ(悲嘆)を扱うカウンセリングについて、「あるがまま・今ここ」指向アプローチの多次元的手法を学び身につける講座である。