飛翔

日々の随想です

「父の日」に想う


 父は貧しい生まれの次男坊に生まれ、「要らん子」として粗末にされて育ったようです。
 家庭の愛を知らないで育った人です。苦学して這い上がった成り上がりです。
 父の新婚当時の日記を読むと母についてこんな記述がありました。
「世の中にこんなにやさしい女がいたとは知らなかった」
 ささくれだって、手負いの獅子のようだった父は、やさしい母と結婚して「牙」を抜かれ、生まれて初めて安らぎを知ったようです。それなのに、生涯母に感謝の言葉を言うことはありませんでした。

私と父は冗談を言い合うこともありましたが、ふたりっきりになると部屋の空気が凍ったようになって、私は息がつまりそうになったものです。生涯、父とは心を割って話したことはありませんでした。それなのに、私は父の心を知りたがる少女でした。読書好きな父が席を立ったとき、そっと父の読んでいた本のページを読んで、父がどんなものを読み、どんなことを考え、どんな感想を持ち、どんな本が好きなのか知ろうとしたものです。

父は「要らん子」として悲しい育ちをしたはずなのに、私は女ばかりの三番目に生まれたため、私も父が切望していた男の子でなかった「要らん子」だったのです。娘が何歳で、どこの学校へ通っているのか、何年生なのかも、知らなかったし、知ろうとしなかったのです。
 でも子供ってけなげなものです。どんなに邪険にされても、子供は親を無条件に慕うのですから。
 そんな私を母はいつも「あなたはお母さんの宝物」と声にだして言ってくれました。その言葉がどれだけ私の支えになったかしれません。母の言葉こそ私の生涯の宝物です。

あんなに「要らん子」だった三番目の女の子の私が父を看病し、看取りました。新幹線の回数券を買い、東京まで看病に通い続けました。同じ家には二番目の姉も、近くには最愛の長女がいたというのに。
あんなに大きかった背中が小さくなって、私が背中を拭くたびに、「ああ、気持ちがいい」と喜びました。
 恨みもなにもなくなって、ただただ老いのシミが浮いた背中を拭いた日を思い出します。
 血は水よりも濃し
私にはもう父の日も母の日にも贈る人がいなくなってしまいました