飛翔

日々の随想です

母と来し方の人たち


 子供のころから人間が好きで、興味があった。我が家を訪れるさまざまな人を観察するのが面白かった。
 訪問客の中でも変わった人物は伯母である。伯母は本好きの私に、大きくなったら自分を題材にした小説を書いてくれとよく言っていた
 この伯母の夢は、馬賊になってモンゴルの大草原を駆け巡り、大暴れすることだというのだから、相当変わっている。未亡人の伯母は一人息子に自転車屋をやらせ、自分は店の真ん中にしつらえた長火鉢の前で長いキセルでおいしそうに煙草をくゆらせていた。鉄火肌の伯母の人生は確かに小説の題材になるものであった。
 そんな伯母を筆頭に政財界の大物からジャーナリスト、くずやのおじさんなど、さまざまな人たちが、我が家に出入りしていた。
 どんな人にも公平に優しく接する母を慕って来た人の中には、罪を償って出所してきた人がいた。
 彼がまだ少年のころ、隣の家に引っ越してきたのが新婚の所帯を持ったばかりの父と母だった。少年には年の離れた姉が一人いたが、
両親が突然亡くなり、姉と少年だけの生活が続いた。姉一人の稼ぎでは到底やっていけない家庭である。姉は銀座にある宝石店の社長の世話になり、生活の面倒を見てもらうようになった。社長は酒を飲むと荒れる酒乱だった
 少年は、家にやってきては酒を飲み暴れる社長を憎んだ。ある日、社長がいつものように酒を飲んで暴れ、姉を半死半生の目に合わせる場に居合わせた少年は、姉をかばってそばにあった包丁で刺してしまった。
 正当防衛か、過剰防衛か。裁判の推移は私にはわからない。
 ところで、彼のことをもう少し詳しく話さねばならない。彼は日本脳炎の後遺症で言葉が不自由になり、麻痺が残っていた。頭脳明晰だった彼から言葉の機能を奪い麻痺を与えたことは将来の生活のめどがつかないものとなった。そんな彼がたった一人の姉を半死半生の目にあわせる男を許せるはずがない。
 情状酌量の余地はあった。しかし、刑に服したのだった。
 そんな少年時代から知っている母は、身寄りのない彼を陰になり日向になり応援し、援助してきたのだった。しかし、それは父にも誰にも言わない事柄だった。刑を終えて出てきた彼は、母を自分の母のように慕って訪ねてくるようになった。
 おぼつかない言葉で母に懸命に話す彼は、子供だった私には異様にみえた。脳炎の後遺症のため、よだれは絶えず流れ、発する言葉は理解しがたいものであった。しかし、母にだけは彼の言葉は理解できたようだった。相槌をうち、言葉を補って、耳傾ける母はどこまでも優しかった。
 母にとっては、たまたま隣に住んでいただけという間柄だったのに、拘置所の中にも差し入れをし、刑期を終えても面倒を見たのだからその優しさは、計り知れない。
 いつも慎ましく、父をたて、子供のために身を粉にして働いてきた母。自分のことは二の次、三の次にし、他人の言葉に耳傾け、日陰で暮らす人を助け、すべてを大きな愛で包んできた母であった。
 その一方、私を含めて三人の娘たちは、母に感謝の言葉をかけなかった。父も「ありがとう」の一言もない日々だった
 今、私が何かを綴ろうとすると、冒頭に紹介した鉄火肌のおばさんの一生が浮かぶ。モンゴルの草原で、馬を蹴立てて走る夢を見ながらも、その生涯は下積みが長く、波乱万丈だった。それを描くならば、きっと面白いものになるに違いない。また、我が家で見聞きした政財界の大物たちの裏話を書いたなら、きっとセンセーショナルなものになるだろう。
 しかし、人のため、夫のため、子供のために真心を尽くしてきた母の日々こそが、魂を揺さぶるものであったと今頃になって私は気がつくのである。
 子供のころ、母が作った煮物を食べたとき、思わず、
 「おいしい!お母さんの煮物は世界一だ」
 と叫んだ。黙々と食べていた姉が、
 「もう、おおげさなんだから!」
 と言った。おおげさなんかではない。おいしいという感情と、朝から気長に煮込んだ母の労力に対する感謝の気持ちを、こんな言葉でしか伝えられない自分が情けなく、ご飯茶碗を持ったまま私は泣いた。
 言葉というものは心の表れである。どんなに幼く言葉足らずでも、口に出さない限り相手には伝わらない。
 母が作ったものに対して、もっとしっかりと伝える言葉が欲しいと思った幼児の頃の思いは、今も尚私を言葉に向かわせている。
 秋の日の暮れ方、ふと子供のころのあの人、この人を思う。そして母の優しい大きな愛を想うのである。
 新しいページに言葉を書くのなら、私は一番に母の来し方を書きたい。誰にも評価されることなく生涯を終えた一人の女性にも、美しく気高(けだか)い生き方があったことを書きたい。
 母に伝えたい言葉が見つからず、ご飯茶碗を持ったまま泣いた幼い私は、もうここにはいない。