[あんつるさん]こと「安藤鶴夫」の名随筆をしみじみと読むことが出来た。
文から癒されるひとときを得た一日だった。
子どものころは嫌なことや、悔しかったこと、悲しかったことなどを抱えて学校から帰ってくると独りピアノの前に座って先ずは今の気持ちを弾く。
それから好きな曲を弾いているうちに心の中のもやもやがどこかへ消えていって、心静かに、あるいは、心浮き立つことができた。
そんな心模様は音色にも現われるのか、ピアノを弾き終わって茶の間でおやつを食べるころは、母にその日の出来事がすべてわかってしまっている。
姉たちが下校しないひと時は、母を独占できる蜜月タイムだ。
姉や私に出されるおやつの入れ物は銘々のもので、色違いの漆塗りのまげわっぱである。子どもでも本物をあてがわれて、物を大切に扱うことを教えられた。
フルーツを入れるガラスは江戸切子の美しいものだった。母の父から伝わるもので、他の器でフルーツを盛られると味が落ちるように思ったものだ。
音楽や文学や美術品から心を憩うことができるのは嬉しいことだが、やはり母の笑顔に勝るものはなかったように思う。
結婚して自分の家族を持つようになってみると、家庭と言うものの存在を考えることがある。家族のそれぞれが帰宅して居間の自分の居場所に着くとみんな「ああ、我が家はいちばんいいなあ」と顔をほころばせる。それを聞くと私は内心ほっとなごむ。
すぐ上の姉は街を歩いているとほとんどの人が振り返るほどスタイルが良くてファッションモデルのようだ。その姉が我が家に帰ると着古した部屋着をぞろっと着る。みんながそのあまりの落差に「もっといい服着たら」と言うのだけれど、「私はこの着古した服のなじんだ感覚が大好きなのだから」と言ってほころびにつぎをあてながら着ている。
私は家庭ってそんな着古した体になじんだ服のようなものなのだと思う。
心も体もとろんとくつろげる場所。誰かの笑顔が自分を待っていてくれる場所なのだと思った。
今日は「あんつるさん」の随筆を読みながら、心が「とろん」とくつろいだ。