9,11.3,11とテロと災害が起き、今また台風豪雨による,
堤防決壊、洪水、土砂災害が起きた。
朝、一緒にご飯を食べ「行ってまいります」といった家族がもう夜には帰らぬ人になってしまう。
そんな悲しいことが悪夢でなく、実際に起きていると、今をいかに大切に生きるかを問われる。
幸せと云うものがあるのなら、それはふと笑みがこぼれるところから生まれるのではないだろうか?。
江戸時代末期の歌人に橘曙覧(たちばなのあけみという人がいる。
- 作者:橘 曙覧
- 発売日: 1999/07/16
- メディア: 文庫
独楽吟(どくらくぎん)と題した連作歌がある。
52首もの歌はすべて「たのしみは・・・」からはじまっている。
・たのしみは 妻子(めこ)むつまじくうちつどい頭(かしら)ならべて物をくふ時
・たのしみは 朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲けるを見る時
・たのしみは 家内(やない)五人(いつたり)五(いつ)たりが風邪だにひかでありあへる時
・たのしみは 心をおかぬ友だちと笑ひかたりて腹をよるとき
などと52首が並ぶ。
江戸時代末期の歌人の歌にこんなになごやかで心ほどける歌があったのかと驚くとともに嬉しく共感するのである。
本来、歌というものはこうした感情から生まれるものではないだろうか?
親子五人食卓を囲んでものを食べていられることって本当に嬉しくて楽しくて幸せだ!
しかし、人はささやかなことにいつのまにか眼もくれなくなってしまったのである。
それはあって当たり前のことになってしまっているのだ。
家族そろって食卓に着くこと、誰もきづかないうちにかすかな音とともに花のつぼみがほころびることなどを。
指の先をちょっと怪我をして初めてその指がどれだけ重要なやくわりをしていたのか気付くのだ。
生きとし生けるもの。
そのささやかな営みの中に多くの楽しさがあり、笑みがあり、命あることの喜びが詰まっていることをみつけたいものだ