飛翔

日々の随想です

たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどい頭(かしら)ならべて物をくふ時

9,11.3,11とテロと災害が起き、今また台風豪雨による土砂災害が起きた。
 朝、一緒にご飯を食べ「行ってまいります」といった家族がもう夜には帰らぬ人になってしまう。そんな悲しいことが悪夢でなく、実際に起きていると、今をいかに大切に生きるかを問われる。
 幸せと云うものがあるのなら、それはふと笑みがこぼれるところから生まれるのではないだろうか?。
 では笑みがこぼれるときとはどういうときだろう?
 それはたのしさから生まれるのではなかろうか?

江戸時代末期の歌人橘曙覧(たちばなのあけみという人がいる。
『橘曙覧(たちばなのあけみ)全歌集』(岩波文庫)の中から
独楽吟(どくらくぎん)と題した連作歌がある。
52首もの歌はすべて「たのしみは・・・」からはじまっている。

・たのしみは 珍しき書(ふみ)人にかり始め一ひらひろげたる時
・たのしみは 妻子(めこ)むつまじくうちつどい頭(かしら)ならべて物をくふ時
・たのしみは 空暖かに うち晴れし春秋の日に出(い)でありく時
・たのしみは 朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲けるを見る時
・たのしみは 家内(やない)五人(いつたり)五(いつ)たりが風邪だにひかでありあへる時
・たのしみは 心をおかぬ友だちと笑ひかたりて腹をよるとき

などと52首が並ぶ。
江戸時代末期の歌人の歌にこんなになごやかで心ほどける歌があったのかと驚くとともに嬉しく共感するのである。
堅苦しさなどみじんもなく、俵万智もひっくりかえりそうなほど率直に普段着の言葉で歌っていて嬉しくなる。

・たのしみは 朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲けるを見る時
 は驚くなかれ天皇訪米の時、時の大統領、クリントン氏が歓迎式典で引用した歌である。
このうたは亡き母が毎朝発する言葉とそっくり同じだったので親しみがます。時代を超えて人の心に生じる感情は変わることがないと感動する。
 本来歌というものはこうした感情から生まれるものではないだろうか?
「わ!昨日まで咲いていなかったのに起きてみたら咲いている!嬉しい!可愛い!愛しい!」
親子五人食卓を囲んでものを食べていられることって本当に嬉しくて楽しくて幸せだ!

そんな感情はだれもが持っている喜びである。
そんな嬉しいこと、幸せなことなのに、人はさほど幸せだと感動しない。
しかし、昨今のように不況の嵐、災害の中にいるとそんな日常の喜びや幸せがどんなに大切なものだったかを思い知るのだ。
 人はささやかなことにいつのまにか眼もくれなくなってしまったのである。
 それはあって当たり前のことになってしまっているのだ。
 家族そろって食卓に着くこと、誰もきづかないうちにかすかな音とともに花のつぼみがほころびることなどを。
 指の先をちょっと怪我をして初めてその指がどれだけ重要なやくわりをしていたのか気付くのだ。
 生きとし生けるもの。そのささやかな営みの中に多くの楽しさがあり、笑みがあり、命あることの喜びが詰まっていることをみつけたいものだ。
 江戸時代末期の歌人橘曙覧(たちばなのあけみに「楽しさは・・・」を教えてもらった。
 そしてわれ等が読書子にとって共感する一首
・たのしみは 珍しき書(ふみ)人にかり始め一ひらひろげたる時を実感した一日となった。