飛翔

日々の随想です

花に心を寄せて


 九月九日は重陽(ちょうよう)の節句
  陽 つまり、奇数が重なる日である。そして、奇数の中でも一番大きな数字9が重なることから「重陽」といわれ、菊の花が咲く季節なので、「菊の節句」とも呼ばれる。
 さて、この重陽節句には平安時代から宮中に伝わる「被綿」(きせわた)という習慣がある。前日の八日に菊の花を真綿で覆い、翌朝、菊の香りと夜露を染み込ませた真綿で顔を拭うと若やぐといわれたことから、若さを保ち長寿を願うならわしとなっている。

この重陽節句について 『紫式部日記』(『完訳 日本の古典24』(小学館)にはこうある:
 

重陽の菊の着せ綿」
九日、菊の綿を、兵部のおもとの持て来て、「これ、殿の上の、とりわきて。いとよう老いのごひ捨てたまへと、のたまはせつる」とあれば、

 菊の露わかゆばかりに袖ふれて花のあるじに千代はゆづらむ

 とて、かへしたてまつらむとするほどに、
 「あなたに帰り渡らせたまひぬ」とあれば、ようなきにとどめつ。

 とある。要約すると、
(九月の九日、菊の着せ綿を、兵部のおもとが持ってきて、「これをね、殿の北の方が特別にあなたにですって。よくよく老いを拭きとってお捨てなさいっておっしゃいましたよ」。
 と言うので、(この菊の露には、ほんのちょっと若返るといわれる千代の齢(よわい)があるそうです。菊の花の主であるあなたさまにおゆずりいたしましょう)と詠んで着せ綿をお返し申し上げようとするのに、北の方はもうお部屋へお帰りになりましたというのでお返しするのも無益のことと思ってそのままにしてしまった。)
となる。
紫式部による「重陽節句」は意味深長で、とりようによっては「女」のいやらしさがじわじわとにじみでていて当時の女同士の熾烈(しれつ)な戦いを偲ばせて面白い。
ちょっと斜めに読んでみるとこうだ。
先ず「殿の上の」とは道長の妻、綸子(りんし)のことである。
日ごろより道長紫式部の関係を不快に思っていた倫子が、
 「あなたもだいぶ年なのだから、よくよく着せ綿を使って老いをしっかり拭き取りなさいよ!」
 とメッセージつきで菊の着せ綿を送ってきたのに対して、紫式部は、
 「私はあなたと違って若いから、そんなの結構よ。着せ綿は、本当にそれが必要なあなたにこそお返ししましょう。」

 と応酬したという解釈もできる。
  現代ならさながら「重陽節句 しわとりクリーム」を贈って来た本妻に、
 [こんなしわとりクリームが必要なのはあなたのほうよ!]
 と突っ返したけれど、もう帰ってしまったあとだった。ということだろうか。
 ああ!女の戦は怖い!

 花と女の戦いというと私の身にも降りかかったことがあった。
 塀のまわりに花を植え四季の花々を咲かせて楽しんでいたある秋の日、近所のご老人がやってきて、市のフラワーコンクールに出品してはどうかと声をかけてきた。
 「え!コンクールに出すような花は一つもありませんよ」
 と手を振って断った。しばらくするとコンクールの応募用紙を持ってきて
 「ここに必要事項を書いておいてくれ、明日わしが市役所に持っていくから」
 と無理やり用紙を押しつけて去っていった。
 プランターを並べただけの貧相な花壇ともいえない花たちなのにと用紙を捨てようとした。そこへヨタヨタと手押し車をおして一人の老婦人が通りかかった。
 「いつも綺麗な花を楽しませてもらっています」
 と腰を伸ばしながら一息つくように言った。病院からの帰り道にいつも遠回りして寄るのだと言う。しばらく花談義をしてヨタヨタと手押し車を押して去っていかれた。
 私はただなんとなく花を植えて楽しんでいたのに、遠回りして見に来る方の存在にびっくりしてしまった。その日を境に私は花作りに精をだすようになった。そして意を決して市のフラワーコンクールに参加することにした。初回と言うこともあって「奨励賞」を頂いた。次の年は市民憲章実践協議会会長賞などというぎょうぎょうしいものをいただいた。
 市役所での授賞式に出ることになり、他の受賞者と歓談していると、ひとりの女性がツカツカと近づいてこういった。
 「いつも花壇のデザインで負けているから、今年はどんなデザインなのか、こっそり偵察に行ったのよ。来年は負けないからね」
 と言われて呆然となった。「偵察」「負けない」の言葉が頭の中でガンガンと鳴り響いて不快になった。
 花を楽しむ人に悪い人はいないと言うが、偵察してまで負けたくないと言うその心根が醜かった。翌年からコンクールには出ないことにした。花作りに「勝ち負け」を競いたくなかったし、偵察される不愉快さにもがまんがならなかったからだ。
 遠回りしてまで花を楽しんでくださる方もいれば、偵察してまで競おうとする人もいる。花には罪はないのに、人間はいろいろなことを考え、争うものなのだとうんざりしながら、ふと先日の茶会の出来事を思った。
 
 季節が夏になるころ茶席も炉から風炉に変わる。
 なるべく暑い炭の熱気をさけて炉を閉じて風炉釜を据えて火をみえないようにする心遣いである。そんな暑い季節,茶の湯では「花寄せ」というものがあってとても楽しい。これは葦(よし)の屏風などに掛け花入れをたくさん架け、客が思い思いに花をいける楽しいものだ。用意された花台から好きな花を選んで好きな懸け花いれにいける。侘びた茶席が花だらけになってこのときばかりは茶席が華やかで楽しい雰囲気になる。
 床の間の掛け軸には「思量を凝(こ)らせば即ち背(そむ)く」という一行があった。あれこれ思案してつくろったのでは、真のすがすがしさを失ってしまうということをいましめたものだ。
 茶席の花は、このいましめにのっとって、あれこれ思いわずらって上手く活(い)けようなどと考えずに、一気に活ける。
 実際、なにも迷わず一気に活けた花は実にすがすがしい。
 紫式部の御世から現代にいたるまで人の心から争い事が絶えないけれど、花は無心である。
「思量を凝らせば即ち背く」。あれこれ思案してつくろったのでは、真のすがすがしさを失ってしまう。
 人の心もそうかもしれない。心に曇りがあって、あれこれとりつくろうと失うものが多いというものだ。
 自分を良く見せようとしたり、欠点を取りつくろったりしてはいないだろうか、心曇ることが多い日々を反省する。
 無心に咲く花の清さが美しく心にしみるのだった。