飛翔

日々の随想です

蕗のとう


 今は亡き母恋しくて蕗のとう

 人生には思いもよらないことが突然おきたりする。そんなときほとんどの人が気が動転して自分をなくしがちだ。そんな事件がわが家にも起きた。
 私は三人姉妹の末っ子。一番上の姉は一回り以上も離れている。
  私が生まれたばかりのころのことだった。二番目の姉はまだ三歳だった。赤ん坊の私に手をとられていた母は三歳の次女を中学生の長女に子守させていた。外で子守をしていた長女が目を話した隙に事件は起きた。
 一台の暴走車が次女をはねた。顔と頭に大怪我をして次女は病院へかつぎこまれた。退院しても顔には怪我が残った。
女の子の大事な顔に大怪我をさせてしまった母は自分を責め、子どもの将来を悲観した。父は当時外国に行っていて不在。一人で赤ん坊の私、大怪我の次女、進学を前にした長女と一人で大変な課題を背負った母。
赤ん坊の私を人に預けて、母は顔をぐるぐる巻きに包帯をした次女を抱いて川べりを歩いていた。長女も一緒に歩いていた。
母は川にどんどん近づいていき、もうあと少しで水際というとき、後ろからついてきた長女が、
 「ちょと待って!」
 と鋭く叫んだ。
 「お母さん、お家に帰ろう!百合ちゃんが待っているから」
 と大声で叫んだ。
母はハッと吾に返った。
それからの月日も過酷なものとなった。顔に怪我が残った姉は学校でからかわれた。頭にも怪我のあとが残ったのでそれを隠すため、母は姉に大きなリボンをつけた。ピンでリボンをつけると傷跡は見えなかった。
姉だけリボン姿は目立つので私の頭にもリボンがつけられた。小学校の六年間、私と姉は「リボンの少女」であり続けた。
学校が休みになると母は姉を連れて全国の有名整形外科医を訪ね歩いた。高校生の夏、やっと名医にめぐりあって姉は顔の疵を治す事に成功した。母は心からほっとし、姉も喜んだ。
大きくなって姉はアメリカに留学しアメリカの雑誌にのるまでになった。
しかし、あわやという瀬戸際で何かを察した長女の声に吾に返った母は、以後も決してあの恐ろしい事件を忘れることはなかった。
  後に、父は蔵が建つと噂される要職についていたけれど、噂は嘘のように我が家はいつまでたっても質素だった。それは、怪我をした姉が一人でも生きていけるよう、母がこつこつお金を貯めてアパートを一棟建てたからだった。
母親と云うものは生涯をかけて子どもの行く末をかんがえるものなのだと胸に染みた。
母は「お母さんが死んだらタンスの中を見てね」と言っていた。
 亡くなった日にタンスをあけたら母が自分で縫った自分の死装束が一式そろえてあった。そしてアパートは次女のものにするよう書き残してあった。母は自分の死んだ後のことまで心配して、子供たちの手を煩わせないようにしていたのだった。
母の深い愛情を思うにつけ、母の人生は何だったのだろうかとも思う。
夫と子供の幸せだけを考えて身を粉にしてきた人生。
「お母さんは、洗濯物をたたむとき一番幸せを感じるのよ」
 と言った言葉を思い出す。
  宝石を買うとか、高価なものをかうよりも、真っ白に洗いあがった家族の洗濯物に幸せを感じる母の人生はきっと私が思うそれとは違った幸福感に満ちていたに違いない。
 真っ白に洗いあがった形見の白い割烹着を着て母の好きだった蕗のとうの天ぷらを揚げてみよう。