飛翔

日々の随想です

「ありのままの自分」でいるには?


 桜が散り感傷にふけっていると、庭にはもうハナミズキが芽吹きだした。
 自然のたくましさをいやおうなく感じる。あるがままにただそこに芽吹き、花咲き、散っていくだけ。そこに何の意味付けをすることもなく、ただ無心に咲き散って土に還る。
 そんな大自然の摂理をなぜ人間は素直に受け入れることができないのだろうか。
 
  ありのままの自分でいたいのに、そうなれないと感じるのは、他人の評価や他人から受け入れてもらえないのでないかという恐れがそうさせるのだ。
 幼児の時、ありのままでいられなかった経験が底流にあるのだろう。そのすりこみがあると、他人が期待するものを微妙に察知して、それにこたえようとしてしまう。つまり、「ありのまま」の自分とはちがうものになっていく。
 良い点数をとってきたから「いい子ね」とほめられたとすると、「良い点数を取ったからいい子」という条件付きで認められたと受け取ってしまう。良い点をとらない自分は悪い子なんだと思ってしまう。その子は良い点を取ろうが、取るまいが、その子はかけがえのない存在なのだ。

つまり、条件付きの愛は、その条件を満たしているから愛されている訳で、相手に好かれたいと思えば思うほど、その条件を満たすのに必死になる。人に好かれるべき、愛されるべき人の条件というのを子供の時から言われ育ち、そしてそのうちありのままの自分にはその条件が備わってないと考えるようになり、人は自分に駄目だと失望する。

 つまり、大自然の営みのように、樹木や草木は生を受けた時点でそのまま「自分」であり「あるがままの自分」なのである、すみれは「すみれ」のままであり、決してひまわりになりたいとは思わないのである。

 桜は時期が来れば咲き、散っていく。あるがままの生をまっとうしたいさぎよい終焉である。
 
 誰かに愛されたい、そのために自分のあるがままをゆがめたり、無理をしたり、良い子と評価されたいためにと考えるのは条件付きの愛である。条件が満たされない自分はダメだと考えている間は「あるがままの自分」にはなれない。

 自分を認めてやる。唯一無二の存在であるということを思うことである。そんなとき、こんな詩を読んでみよう。

ぼくがここに
まど みちお
童話屋

ぼくが ここに

ぼくが ここに いるとき
ほかの どんなものも
ぼくに かさなって
ここに いることは できない

もしも ゾウが ここに いるならば
そのゾウだけ
マメが いるならば  
その一つぶの マメだけ
しか ここに いることは できない

ああ このちきゅうの うえでは
こんなに だいじに
まもられているのだ
どんなものが どんなところに 
いるときにも
その「いること」こそが 
なににも まして
すばらしいこと として


「どんなものが どんなところに いるときにも その「いること」こそが なににも まして すばらしい」
そう。この言葉を大事に心の中にあたためていたい。