飛翔

日々の随想です

迎春

新しい年の初めを寿ぎます。

 

   2024年 元旦

 

今年は健康に留意する年にしたいです。

 

2023年大つごもり

生きとし生けるものへの感謝



 庭そうじに汗する午前。我が家の父祖のように天空から庭全体を見おろすケヤキが落葉した。
 枯葉が地面を敷きつめ、風にあおられてカラカラと音を立てて舞う。
 
 せわしない年の瀬。
 なにげなく眺めていた庭にも四季が訪れ、草木が心を潤してくれていたことに気づく。
 葉を落としたケヤキが師走の空に黒々と幹のありかを示していて、まるでエッチングをみるようだ。
  生きとし生けるものたちへの畏敬と感謝の気持ちを捧げたい。
 

失われたふるさとと希望の祈り

「ふるさとは遠きにありて思ふもの」 

 

 

  小景異情

 ふるさとは遠きにありて思ふもの

 そして悲しくうたふもの

 よしや

  うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても

 帰るところにあるまじや

 ひとり都のゆふぐれに

 ふるさとおもひ涙ぐむ

 そのこころもて

 遠きみやこにかへらばや

 遠きみやこにかへらばや

 (「抒情小曲集」より室生犀星

 ※お正月をふるさとで過ごそうと、お土産を持って帰省していく人たちの笑顔がニュースで流れる。
 父母が遺してくれたふるさとの土地を手放してしまった私にはもう本当に「ふるさと」はなくなってしまった。
 東日本大地震津波で家や家族を亡くした人の胸の内を今想う。
 この室生犀星の詩を涙して朗詠する今宵、外は冷たい風が吹いている。
 ひとり都のゆふぐれに
 ふるさとおもひ涙ぐむ
 そのこころもて
 遠きみやこにかへらばや
 遠きみやこにかへらばや
 ロシアの侵略や、イスラエルパレスチナの爆撃で、大切な命や土地を失った人たち。
 来年は戦争がなく、病で苦しむ人がないような日々を過ごせるよう祈りたい。
 
 新しい年が明るく、よりよい年になるよう祈りましょう!
 

 

健康を一枚看板に: 2024年への新たなステップ

2023年師走に入って、市の健康診断でイエローカードが出された。

大腸検査でひっかかり、市内のクリニックで内視鏡検査をした結果ががんだった。

市民病院に紹介状をもらっていくと、おそらくステージ0の癌なので内視鏡で手術しましょうとのこと。

帰宅して夫に言うと、ガンセンターで治療してもらった方がよいというので、そうすることにした。

ガンセンターでは、一からの検査が始まり、結果はS字結腸にがんの所見。内視鏡による大腸内視鏡的粘膜下層剥離手術となった。

4泊5日の入院手術。

手術前のCT検査で乳腺と肝臓に影があると言われ、愕然!

乳腺の検査はマンモグラフィ検査。

乳房を板の上に乗せ、上から下から圧搾機のようなものでサンドイッチにしてレントゲンをかけるもの。

悲鳴を揚げそうに痛い。

右の乳房が終わり、今度は左。もう痛くて「早くやって」と叫ぶ。

終わってやれやれと思ったら、今度は左右からサンドイッチにして鉄板で挟んで撮影。

ギャーっと叫んで終了。

それが終わると、今度はこの道20年というベテランの先生の診察。

やさしい人で、パソコンの画面など見ずに、正面に対峙するように座り、じっくりと、自覚症状を尋ねられる。その後、肌にじかに触れて触診。

注射針で乳首の周りにさして中の細胞を採取するが、これまた痛くて悲鳴をあげそうだったが、医師のやさしい対応に救われて我慢。

その一週間後、結果の発表。

死刑判決前の被告の気持ちを実感。

結果はシロ。がんでも何でもなかった。

やれやれ。次は肝臓の超音波診断。

これも癌ではなかった。

結果は来年早々、医師から説明があるようだ。

こうして、2023年の大みそかは癌騒動で終わった。

内視鏡的手術は受けることになったが、大きなものでなくて一先ずほっとして大つごもりをむかえている。

お金も名誉も、美貌もいらない。

健康でいられるなら、もう何よりの幸せ。

「健康」のありがたさをしみじみ実感した大つごもり。

 

2024年は健康を一枚看板にして歩んでいきたい。

久しぶりのブログ投稿であった。



 


グリーフカウンセリングの講義を受けに出かけた。
 出かける前から雲行きがあやしく、
黒い雲が流れていくのが気になっていた。
 車を駅まで走らせる途中で
大粒の雨が車の窓を叩きつけて降ってきた。

 電車に乗って携帯電話を家に忘れてきたのに気がついた。

 夜、帰宅してみると、
夫が「電話したのに出なかったね」と言う。

 机の下に落ちていたバッグの中に携帯が入っていて、
アラームランプが明滅。
 夫は私が傘を持たずに出かけたと思い、
駅まで迎えに行こうかと問う留守電が2本入っていた。





 子供の頃、途中で雨が降ると、
母が傘を持って校門の前に立っているのが窓からみえた。
その時の嬉しさを思い出した。

雨傘をさし、かっぱを着て
母と一緒に帰った甘やかな記憶が
私の鼻の奥をツンとさせた。


 傘を持たずにでるのもなかなか良い。

子供の頃の記憶、そして今・・・。


 夫と二人で相合傘で帰るのもよかったなあ・・

などとふと思った。 

武骨な愛

東京の実家の庭には、実のなる木があった。
柿、梅、柚子、山椒、いちじく、ざくろ

それらが季節の味を楽しませてくれたものだ。

結婚して庭のある家に住むようになった。
その庭には、柚子と山椒の木を真っ先に植えた。
苗木から育てる楽しみがあった。

山椒の葉が芽吹くころになると、父のことを思い出す。

父は寡黙な人で、子どもにはそっけない人だった。
そっけないというより、むしろ冷たい人だったような気がする。

そもそも子供が嫌いなのだ。
子供を三人も、もうけておきながら、元来、子ども嫌いだった。

忙しいこともあってなのか、子どもに無関心なのか、
自分の子供が何歳なのか、どこの学校に行って何年生かも知らない人だった。

客人が来て、「お嬢ちゃんは何年生ですか?」と尋ねられると
「はて?何年生だったっかなあ」と答えてはばからなかった。

学校で「父について」という作文を書かされたときは一行も書かなかった。
書くネタがなかったし、書きたくもなかった。

あまりにも冷たい父なので、私は父の子ではないのだろうかと疑念を持ったこともあった。
しかし、三姉妹の末っ子に生まれた私は
三人の中で顔の造作が一番父に似ていた。
しかも、父の性格の一番いやなところばかりそっくり私が受け継いだので、
まごうことなく、私は父の子だと、しぶしぶ認めざるを得なかった。

父を嫌っていた私なのに、父の心を知りたがる子供でもあった。

父が読みさしの本を置いて、中座した時、
その読みさしの本のページをむさぼるように読んだ。
そこに何が書いてあるか?
父が何に興味を持ち、何に心を動かしているのか知ろうとした。

そんなわたしが年頃になって結婚することになった。

山口百恵ちゃんが歌った「秋桜」にあるように、
小春日和の穏やかな日にわたしは嫁いだ。


その嫁ぐ前の日、
父は庭下駄を履いて、庭の山椒の太い幹を切った。

陽の当たる縁側で、小刀で削り、やすりをかけた。

出来上がったごつごつした武骨(ぶこつ)な山椒の木を
私に差し出した父は、
「これもっていけ」
とこれまた武骨にそっけなく言った。

それは山椒の香りがする「すりこぎ」だった。


それをみた母が「まぁ!お父様!」
と言って前掛けのふちで涙を拭いた。

手渡されたわたしは父同様にぶっきらぼう
「どうも」と愛想もなく礼を言った。

結婚して真っ先に、台所の壁にくぎを打って父の「すりこぎ」をかけた。

システムキッチンには不似合いの

武骨な「すりこぎ」

あんなに遠かったのに、

こんなに近くにいた 

父さん

子供の頃から客人がお見えになるとお茶だしをするのは私の役割だった。

年の離れた姉たちに半ば強制され、嫌な役割を押しつけられたからだった。

母が客間で接客している間、洋菓子を出すか、和菓子を出すか考える。

お客様のランク付けも自分で考える。
ちょっと寄っただけの客か、父の重要な客か、知己かなど。
それによって紅茶、コーヒー、ジュース、煎茶、玉露か等を決める。

和菓子となると虎屋の羊羹などを漆の菓子皿にくろもじを添えて厚めに切ってだす。
虎屋の黒餡の羊羹が大好きな私は
残り少なくなると後で自分にまわってこないといけないので
、客にはださず、私の嫌いな抹茶羊羹を出す。

ケーキも私の好みのケーキは客にださず、
バームクーヘンをこれでもかとばかりに厚く切って客に出す。

でも大好きなケーキしかなく、しかもそれがわずかしかないときなどは、
泣く泣くそのケーキを客にだす。
いつもはお出ししたらすぐに引っ込む私だけれど、
そんな時はそばに立って客が食べてしまうのを恨めしそうな目で眺めているので
客もそんな視線に気が付くのか食べずに帰っていく。

さもしい根性の私は後で母にこっぴどく叱られる。
「もう二度とお茶出しなんかしないもん!」
と言ってスカートの端を噛みながら泣きべそをかく。
お茶の話_b0411639_09400149.gif

客人はジャーナリスト関係の人が多く、
お茶を出す私をつかまえちゃあ、ああでもない、こうでもない、
誰それに似ている、似ていないと品定めをしていく。

ある日、玄関に客が来て応接間にいつもの通りお通しした。
「あの~。お名前をうけたまわりたいのですが?」
と母にいつも教えられている通りに言うと
その人は「お嬢ちゃん、僕の名前は「すーさん」ですと言えば分かるよ」とおっしゃる。

きまじめな私は母に後で叱られないようにしっつこく食い下がって
「あのー。どちらのすーさんですか?」
と大人びて言ってみた。

するといたずら好きのこの人はこういった。

「助平のす~さんだよ、お嬢ちゃん」

私は忘れないように「すけべえのすーさん、すけべえのすーさん」
とお経のように暗記しながら、奥へ入って母の顔を見たらほっとして、
家中に聞こえるような大声で
「すけべえ~のすーさん」がいらっしゃいました~~~ぁ。と言った。

その後母はしばらく客間に行かなかった。行かなかったのでなく、行けなかったのだった。
どんな顔をして出ていって良いやら分からなかったのだろう。
子供にお茶だしをさせるからこんなことになるのよ。

以後、私はお茶だし係りから放免された。
番茶もでばなの年頃になっても、私の出番はまわってこなかった。(*^_^*)
つまり古い言葉で言えば「お茶をひく」ことになったのである。
そうか、それでこの年になってこんなところで
「ちゃ、ちゃ」をいれてるのね。(^_-)(^-^)(~o~)

NHKの朝の連ドラ「Come come everybody]を楽しみにしている。
ドラマの進行と同時に、何か不思議な既視感にとらわれてしかたがない。
それは英語。

子どもの頃のおぼろげな記憶の中に朝起きる時母が
[The sun is up .Get up early.]
と、いって起こされた記憶がある。

そんな記憶がもうなくなったころのことだ。
中学生になって、英語の勉強を始めようとした私に母がこういった。

「お母さんに、英語を教えてね」

母に英語を教える!!!
子供にとって大人に何かを教えるなんてありえないこと。
しかも、母に英語を教える!!!

有頂天になった私は学校から帰ると母に、今日習ったばかりの英語を得意になって教えた。

その時ふと母が
「昔、お母さんはカムカムおじさんの英語をよく聞いていたものよ」
と、懐かしそうな眼をしていった。

母はラジオ英語をよく聞いていた。
英語だけでなく、古典や歴史などのラジオ講座も縫物をしながら聴いていた。

NHKの連ドラで、安子とるいの親子がラジオの前に座っている様子が昔を思い出させる。

そして今日のシーンでは英語塾に通い始める るいと、教材に関わるようになる安子。

わたしも実は外国人を雇って英会話教室を開校したことがある。
それはひょんなことだった。

表千家茶の湯の稽古仲間が、
近所の外国人が英語の職を探しているから、あなた雇ってよという依頼だった。

もともと学習塾を開いていたので、
大人のための英会話教室
あっというまに近隣の町から習いに来る人で一杯になった。

そのうち、講師も地元の大学で教えている外国人教師を雇うまでになった。

その外国人教師の教え方が素晴らしく
評判は評判を呼んで英会話教室は満杯になった。

そして、ついにはわが塾から留学生を送り出すまでになったのである。

縁は異なもの味なもの。

英語のご縁はまだまだ続きます。

「カムカムエヴリバディ」と傷と英語_b0411639_09424390.jpgベネチア、仮面カーニバルにて撮影


朝のNHKの連続ドラマ「カムカムエヴリバディ」に不思議な縁を感じる。

キーワードは英語と傷

今日の放映では娘「るい」の傷を
亡夫の実家の資金で治すか否かにかかっている

女の子の顔の傷は、親にとっては身を切られるようにつらいこと。
どんなことをしてでも治そうとする。

次姉は幼いころ、事故で顔と頭に大けがを負った。
新聞に出るほどの事故だった。

姉が三歳。
私は産まれたばかりで、母は赤子の私に手をとられていて、
長女13歳に次女3歳の子守を任せていた時の事故だった。

顔と頭に包帯をぐるぐる巻いたままの姉を
病院から連れて帰る途中、
母は、川沿いを歩いていった。
長女13歳も後ろをついて歩いた。
川の中に入ろうとする母に長姉が声をかけた。

「お母さん、おうちに帰ろう!赤ちゃんが待っているから」

はっと我に返った母。

それからは母にとっても怪我をした姉にとってもつらい日々となった。

小学校時代は頭の怪我を見えないようにするため
頭に大きなリボンをつけた。
大きなリボンは目立つので妹の私もリボンをつけた。
そんな理由も知らず、学校では大きなリボンが流行って、
多くの子がリボンをつけるようになった。

学校が休みのたびに、母は日本中の名医を訪ねて姉の顔の傷を治そうとした。

高校生の夏、名医に巡り合って、
姉の顔の傷はほとんど目立たないぐらいに治った。
姉はもちろんのこと、家族全員が心から喜んだ。

それまでの間、心ない人の視線や、
「可哀相に」「どうしたのかしら?顔の傷」
という言葉に心をえぐられた。

学校の片隅で子供たちが固まりになっていると、
それは姉が顔の傷をはやされて喧嘩しているところだった。

妹の私はなすすべもなく、加勢できず、その場から逃げていった。
そんな自分のずるさに、いたたまれない少女時代だった。

姉は理由もなく、私を叩いたり、いじめたりした。
最初は逆らって叩き返そうとしたが、ある日を境に、じっとこらえるようになった。
無抵抗な妹に、さらにうっぷんが晴れずに、いじめは執拗になった。

そんな姉が私立の中学に通うことになった。
そこで英語に巡り合った姉は、
勉強に打ち込んで明るく活発な女の子になっていった。
英語に救われたのだ。
得意科目ができると、自信になる。
高校生になって顔の傷も治った。
ついにアメリカに留学するまでになった。

帰国したある日、
アメリカから姉の所へ国際電話が入った。
母がなにげなく電話に出てびっくり。
国際電話だったから。
あいにく姉は留守。

母は慌てたが、替わって電話にでる者はいない。
腹を据えた母はゆっくりと話し出した。
英語で
しかも、流ちょうな英語で!

お母さんが英語をしゃべった!

家じゅうひっくり返るような衝撃

私が中学生になった時、
「お母さんに英語を教えてね」
と言ったのに
実は母は英語ができるのだった。

母は夫にも子供にも自分の学歴を隠していたのだ。

✿ ✿ ✿
NHKの「カムカム英語」
「るい」はこの先どうなるのだろうか?
愉しみだ。



そしてわが家の英語の話はまだ先が続く。

いつも地味な着物に、白い割烹着を着て、朝から晩まで倒れこむまで働いていた母。
その母が本を読んでいる姿を見たことがない。

私が高校生になって初めての夏休みのことだった。
有島武郎の『或る女』を読了して、読後の余韻に浸っていたとき、
母が「お茶にしましょう」と声をかけてきた。

カステラと紅茶というシンプルでおいしいティータイム。
母と二人の時間はほっと、くつろぐひと時だ。
父の書斎の棚から
ウイスキーの瓶を失敬してきた。
「紅茶にウイスキーを垂らすとおいしいのよね」
母も黙認


「今ね、有島武郎の『或る女』を読み終わったところよ」
というと、母は
「あゝ葉子ね」
と言った。

主人公の葉子の名前をいきなり母が言って驚いた。

「え!お母さん、有島武郎を読んだの?」

白樺派でしょ。弟の里見 弴も、読んだものよ」

と言ったのでさらにびっくり。

「お母さんが、本を読むなんて嘘みたい!それっていつのこと?」

と尋ねると、母は遠い目をして女学生時代を想い起した。

「いつだったかのニュースで〇〇県の知事選がニュースになったことがあったでしょ?
あの知事になった人が大学生のころ、おじいさまの家によく出入りしていたことがあってね」

私の祖父つまり、母の父は大学で教えていた。
昔の大学は教授と学生とは、親密な交流があった。

教授の家にやってきて酒を酌み交わしては議論したものだ。
その中にCさんがいた。
Cさんは、地方出身。

そのCさんが、アメリカ留学することになった。

そこで留学から帰るまでの間、自分の蔵書を先生のお宅で預かってもらえないだろうかと言いに来た。

祖父は頑固な一面、考え方はリベラルで
学生が来た時は、娘たちも一緒に加えて議論に参加させた。
男も女も等しく学問すべきだと日頃から言っていた祖父。

娘三人の華やかさに惹かれてか、学生たちは盛んに祖父の家を訪れた。

その中でもCさんはおおらかな人柄と、読書量の多さで、ひときわ抜きんでていた。

アメリカ留学が決まった日、Cさんがやってきて母に

「〇〇さん、僕が留学中に、預かってもらうことになった本を好きなだけ読んでください。
帰国したら、その感想を聴けたら嬉しいなあ」

と言った。

母はその言葉通りに、Cさんの蔵書をすべて読みつくしたとか。

帰国したその時に、感想を言い合うことを夢見て。

その後Cさんのご母堂がやってきた日を母は覚えていた。

Cさんは地方の名士の息子。

Cさんのご母堂の着ていた羽織の紐まで覚えている母。

「羽織の紐はね、細い金でできていたのよ」

その後、Cさんは政界に打って出て活躍した。

母とのその後は?

母はそこまでしか語らなかった。

有島武郎の『ある女』とCさんと羽織の紐。

解けそうでとけない謎の縁である。