飛翔

日々の随想です

いつも地味な着物に、白い割烹着を着て、朝から晩まで倒れこむまで働いていた母。
その母が本を読んでいる姿を見たことがない。

私が高校生になって初めての夏休みのことだった。
有島武郎の『或る女』を読了して、読後の余韻に浸っていたとき、
母が「お茶にしましょう」と声をかけてきた。

カステラと紅茶というシンプルでおいしいティータイム。
母と二人の時間はほっと、くつろぐひと時だ。
父の書斎の棚から
ウイスキーの瓶を失敬してきた。
「紅茶にウイスキーを垂らすとおいしいのよね」
母も黙認


「今ね、有島武郎の『或る女』を読み終わったところよ」
というと、母は
「あゝ葉子ね」
と言った。

主人公の葉子の名前をいきなり母が言って驚いた。

「え!お母さん、有島武郎を読んだの?」

白樺派でしょ。弟の里見 弴も、読んだものよ」

と言ったのでさらにびっくり。

「お母さんが、本を読むなんて嘘みたい!それっていつのこと?」

と尋ねると、母は遠い目をして女学生時代を想い起した。

「いつだったかのニュースで〇〇県の知事選がニュースになったことがあったでしょ?
あの知事になった人が大学生のころ、おじいさまの家によく出入りしていたことがあってね」

私の祖父つまり、母の父は大学で教えていた。
昔の大学は教授と学生とは、親密な交流があった。

教授の家にやってきて酒を酌み交わしては議論したものだ。
その中にCさんがいた。
Cさんは、地方出身。

そのCさんが、アメリカ留学することになった。

そこで留学から帰るまでの間、自分の蔵書を先生のお宅で預かってもらえないだろうかと言いに来た。

祖父は頑固な一面、考え方はリベラルで
学生が来た時は、娘たちも一緒に加えて議論に参加させた。
男も女も等しく学問すべきだと日頃から言っていた祖父。

娘三人の華やかさに惹かれてか、学生たちは盛んに祖父の家を訪れた。

その中でもCさんはおおらかな人柄と、読書量の多さで、ひときわ抜きんでていた。

アメリカ留学が決まった日、Cさんがやってきて母に

「〇〇さん、僕が留学中に、預かってもらうことになった本を好きなだけ読んでください。
帰国したら、その感想を聴けたら嬉しいなあ」

と言った。

母はその言葉通りに、Cさんの蔵書をすべて読みつくしたとか。

帰国したその時に、感想を言い合うことを夢見て。

その後Cさんのご母堂がやってきた日を母は覚えていた。

Cさんは地方の名士の息子。

Cさんのご母堂の着ていた羽織の紐まで覚えている母。

「羽織の紐はね、細い金でできていたのよ」

その後、Cさんは政界に打って出て活躍した。

母とのその後は?

母はそこまでしか語らなかった。

有島武郎の『ある女』とCさんと羽織の紐。

解けそうでとけない謎の縁である。