飛翔

日々の随想です

『少年少女のための文学全集があったころ』

少年少女のための文学全集があったころ

少年少女のための文学全集があったころ

 子供時代に読んだ本は懐かしく、本の手触りまで覚えている。
 そんな懐かしくも愛おしい子どもの頃読んだ本についてのエッセイが本書である。

 ページを開くと、懐かしい本がいっぱいだ。
 『にんじん』『くまのパディントン』『小公女』『くまのプーさん』『赤毛のアン』『ドリトル先生シリーズ』『ちびくろさんぼ』『あしながおじさん』『大きな森の小さな家』などなど、懐かしい本にまつわるエピソードが語られていく。
  何といっても語り口が実に楽しそうで読むほうも惹きこれる。

  外国の本はその翻訳に負うところ大である。特に少年少女のための名作は抄訳のすぐれたものが多く、石井桃子豊島与志雄内藤濯は、原作の本質を損なうことなく、物語の大切なメッセージをきちんと伝えるものだったことを、著者は原書を読んで確かめてみせた。ただ懐かしかった。面白かったでなく、原書と突き合わせ、丁寧に読み解いていく中から完訳ばかりが是とするものでなく、すぐれた抄訳の魅力を読み解いていく過程は何とも胸がすく。

 本書の中でも最も多く紙幅をとっているのは「アンの悲しみ」という章であろう。
 今でも多くのファンがいるのは村岡花子訳の『赤毛のアン』である。
 この村岡花子訳が完訳でなく、重要な場面の省略を含むことはあまり知られていない。
 物語にとっても、大切な個所である部分をざっくりと削ってしまったのはなぜか?
 まるでミステリーの謎を解くように、いろいろな人の訳をひもとき、村岡訳とつきあわせてみる。独自の仮説を立て、ついには、村岡花子の孫二人に取材し、真相を突き止めようとする部分は本書のハイライトでもあり、元新聞記者であった著者の真骨頂をみるようである。
 
 しかし、何といっても楽しいのは「読むという快楽」の章かもしれない。
 著者の家族、祖父、父、母との本にまつわるエピソードは微笑ましく、時には爆笑してしまう会話がある。
 明治生まれの祖父からの本のプレゼント、父からのサプライズの本、それがのちに事件を引き起こすが、それは読んでのお楽しみ。
 素晴らしいのは父からのプレゼントだった本を母も「面白い本ね」と言って一緒に読む部分だ。
 祖父からの誕生日祝いにもらった「天正の少年使節」の読後の感激にひたった著者は、今度は母にも読むことを勧める。
 夕食のとき、その登場人物を母子で言えるかどうか確かめ合う会話部分は爆笑してしまったけれど、素敵な母娘である。
 親が娘に本のプレゼントをし、母も「面白い本ね」と言って一緒に読む。ある時は娘が母に本を勧めて読む。
 素敵な家族である。
 「どうやったら子どもを本好きにするか?」などと問う前にこの章を読むのが良いだろう。
 祖父から誕生日祝いにもらった一冊の本がそれにまつわる本を大人になってから次々と読むことになる。感動が読書の旅に連れて行ったのだ。

 小学生の頃に読んだ一冊の本が次々と本の旅に連れ出してくれ、やがて歌人になった時、その一冊についての短歌を詠む。
 一冊の本が長い間一人の人間に深く浸透して豊かにしてくれたことがわかる。

 「読書感想文の憂欝」の章は多くの人の共感を持つだろう。
 読書は好きだけれど、読書感想文を書くと思っただけで嫌になるという人は多い。私もその一人だ。

  「子どもに読書感想文を書かせることが果たしてよいかどうか疑問に思うのは、作品を読んだときに受けた印象を、「かきまわしてはいけない」と思うからだ」
 「本当に大きな感動を覚えたとき、それは恐らく一生、その子の心に残る。言葉にしないまま、そと胸にしまっておくことで、その感動は子どもの成長と共に熟成し、心を豊かにする」

 まさに言い得て妙である。
 
 子どもの頃読んだ一冊の本が一人の人間の血肉となって深く浸透して豊かにしてくれることを本書を読んであらためて知った。
 ここに出てくる本たちにまた巡り合いたくなった。実家に置いてきた子供の頃の本をとりに行ってこよう。
 子どもたちに本を読む楽しさをわけてあげたくなった。