飛翔

日々の随想です

半年ほど前に右耳の顔寄り、頬のきわに小さなイボ状のものができた。
 少しずつ大きくなっていくようなので、思い切って皮膚科に行った。
 炭酸ガスレーザーで焼き切ってもらった。少しだけチクッと痛んだけれど、モノの1分ほどの治療となった。
 料金も1000円ちょっと。軟膏を出されて来週また治療跡を見せに行く。

 ドクターコスメなるものも売っていて、整形手術もするとか。
 このクリニックから出てきた人は皆同じ顔になっていたら怖い。
 こんな田舎のクリニックでも整形手術ばやりなのか?
 
 わたしのようなヘチャむくれでも、愛嬌があると言ってくれる人がいるから、整形のお世話にはならない。
 でも整形でなく、形成外科は大切なものだ。

 実は私の姉は子供のころ交通事故で顔と頭に大怪我を負ってしまった。
 学校の休みのたびに、日本中の有名病院を渡り歩いて顔の傷を治す名医を探し歩いた。
 姉が高校生になった夏、やっと名医にめぐり合って、顔の形成外科手術が成功した。
 その時は姉はもちろんのこと、家族全員が医者に感謝したのは言うまでもない。
 女の子の大切な顔に怪我を負わせたと母は生涯自分を責めていた。
 姉が将来一人で生きていけるようにとアパートを一棟建てて姉に残したのは母の負い目だったのだろう。

 だから美容外科でなく、形成外科の存在は外見の傷だけでなく心の傷までも治す大切な外科部門だと思っている。

 一方こんな出来事もあった。
 
 塾の教師をしていた時、顔にあざがある女の子が入ってきた。
 卒業するときその女の子が私に一通の手紙を手渡してくれた。

 そこには顔にあざがあることで自分は人の心の奥が見えるようになり、あざが自分の克己心を育ててくれたと書いてあった。
 そして大きくなってもそのあざをお化粧などでかくすことはしないと書いてあった。

 わずか十代の女の子の凛とした人生への宣言であった。

 人は齢(よわい)を重ねただけでは人生を知ったことにはならない。
 来し方の様々ないまわしいことを抱えたままその過去から決別できない人もいることだろう。
 しかし、過去を引きずり続けてもそこからはなにも生まれない。
 そこで得たもの、あるいは失ったものを一つの教訓として前進することが大切だ。
 私はわずか10代の生徒から生き方を学んだ。