飛翔

日々の随想です

心を解き放つこと


瞑想教室へ行ってみようかと思ったのは、心のバランスが崩れそうなことがきっかけだった。
 人は何か心や体が不調な時は、その不調を整えようとか、立て直そうとか無意識にするのかもしれない。何かに導かれるように、瞑想教室へ入った。誰でも入会できるという言葉に惹かれたからだった。
 瀟洒なビルの佇まいにひるんだが、中へ入った。迎え入れてくれた男性のごく自然な態度と風貌に、ひるんだ心がピタリと落ち着いた。それが瞑想教室の先生だった。
 瞑想へのいざないかたも、ごく自然。言葉も大きくなく自然。昔からそこにいたような感じすらして、まるで違和感がない。
 二時間の間、心がとても素直になれた。体からも余計な力が抜けた感じがしたが、何よりも心の深い部分が素直になれたのが不思議な感じがする。こじれて、かたくなだった根っからの私がはじめて「心を解き放ってもいいんだよ」と思えた瞬間だった。

 初回の瞑想教室から十二回目が過ぎて一年が経った。自分の生き方が、今までどれだけ力こぶが入ってきたか、それが体にも心にも影響していたことに気づく。

 私が生まれ変わったのは今から9年前の事である。くも膜下出血の大手術から生還し、後遺症もなく退院してきた日がそれである。赤ちゃんがこの世に生誕して初めてみる風景はこんな風かもしれないと思った。何もかもが初めて見るような気がした。今まで見てきた風景とは違うものがそこにあった。
 風が頬をなでていく。
 「風ってこれなんだね」
 赤ちゃんが初めて風に触れたとき、きっとそう思ったことだろう。
 何もかもが生まれて初めて見るような景色、感触、音、匂いだった。
 そんな新鮮な感触に魂が震えた。生きていること、呼吸していること。聞こえる事。歩けること。食事ができる事。ものみなすべてが嬉しくてありがたくて涙があふれ、「ありがとう」と言う言葉がお腹の底からでてきた。
 そんな九年前の新鮮な喜びと感謝の念も、いつのまにか薄れて、またかたくなな心が私をしばっている。 誰が縛ったわけでもなく、自分で自分をかたくななにしていたのだ。
  瞑想して「心を解き放ってもいいんだよ」という心の声に導かれてから、体が軽くなった。 また景色が美しく見えはじめた。
  細胞が活性化されたのだろうか。なんでも見てみたいやってみたいという気持ちがわいてきて一秒が楽しい。
  瞑想のまだほんの入り口にも達していない私だけれど、何かが私を解き放ってくれた。それはたぶん誰でもなく、私自身なのだろう。あの九年前に見た生まれ変わったときみた風景に、また出会えたような気がする。