飛翔

日々の随想です

牧場へ続く道


 日曜日、夫と昼食後小一時間ほど、家の周辺を散歩した。ちょうど一万歩あるいた。
 家の周辺は牧歌的。牧場があるのだからまさに牧歌的と云う表現は当たっている。
 冬枯れの野原は周辺の牧場へと続く。
 竹やぶあり、沼地あり、ため池あり、草が生い茂った原っぱありと歩きながら景色の変化を楽しめる。

 歩く速度と云うのはのんびり考え事をするのに適している。
 歩きながらとりとめもなく昨日今日の出来事や、日ごろ考えていること、友達のことなどを話しながら歩いていると一時間の散歩もあっというまのこと。
 日ごろ顔を突き合わせているとそんなとりとめもない事柄など話さない。散歩の思いがけない効用とでも言おうか、心の片隅にあることがこぼれてくる。

 友だちでも、夫婦でも、恋人でも「時」というものは心を育むものらしい。
 絶交している友だちでも、時がたち互いが成長したり、社会でもまれたりするうちに互いを理解できる心が芽生える。
 時というのは気づかぬうちに目に見えないものを育んでいることがある。

 子供の頃母の言っていることに一々逆らったものだ。しかし、逆らいながらもその言葉は覚えているから不思議だ。
 今頃になってその時の母の言葉の真意が身にしみる。

 また平凡という幸福な状況にあるとその「平凡」が退屈で不満だったりする。しかし、ひとたび逆境にたつとその「平凡」がどれだけ満ち足りた意味を持っていたことかと実感するのだ。

 病をえたときも同じだ。健康であることのありがたさを知るのは病に倒れたときに感じるのだから皮肉なことだ。

 夫婦でも逆境に立つとにわかに結束が固くなり、互いを守りあって励ましあう境地になる。
 人間と云うのは日常のささやかな幸福に気づかないもののようだ。
 謙虚に生きることを忘れている私。
 田舎暮らしのつつましやかな日々が過ぎていこうとしている。

 牧場の小道を家人と歩きながらふとそんなことどもを考えたのだった。