飛翔

日々の随想です

花を買い来て

 先日、フラワーサイコセラピスト主催の「フラワーサイコセラピー講座」に参加した。
 ものすごく楽しい講座で受講者たちが自由にのびのびと心のままに活けた花をみていたら癒された。
 その一人の作品があまりにも、その人のキャラクターを映しているように、ほがらかなお花だったので、思わず、
 「元気がないとき、そのお花を見せていただきたいです」と言ってしまった。
 本当に見ているだけで元気がでそうなお花だった。
 そう。花は人の心を癒したり、慰めたり、元気づけたり、ほのぼのとさせる何かがある。

 ・友が皆我より偉く見ゆる日よ 花を買い来て妻と親しむ(啄木


この歌と似たような胸中になった人はいるだろう。
クラス会にでてみると、テレビで活躍している人もいれば、「タイム」の記者になった人もいてびっくり。
 ただでさえ都落ちした感が強く落ち込んでいた私にはカウンターパンチを食らったようなここちがした。
新幹線を降りてローカル線に乗り換える車中で言い知れぬさみしさが胸の中に沸きかえるのだった。
渋谷のど真ん中で育ち卒業後は第一線で活躍するチャンスはいくらでもあったのに・・。
そんな繰り言が次々と胸の中をふつふつとわいては打ち消しているうちに家についた。
「クラス会どうだった?」
と尋ねる夫の問いにもから返事ばかり。

事情を聞いた夫は「馬鹿だなあ〜。時代遅れの発想だよ。今は都心から離れて、いや、それどころか国を離れて、のどかなところからコンピューターを通して発信する時代だよ」
 と言う。
 「作家の板東真砂子や多和田葉子しかり、塩野七生はその最たる人だよ」とも。

 例に挙げる人は超有名人ばかり。しかし、心地よい言葉にはすぐ順応する私は「それもそうね」などと言って気を持ち直す。

 しかし、しかしである。私が一番寂しいのは、社会の第一線で活躍している夫との距離である。
 いつも互角でいようなどと云うのではない。家庭にあって夫の支えであればよいではないかと云う考えもある。
 実際はそのとおりであり、未熟ながらも支えているつもりではいる。
 しかし、そういう問題ではないのである。大学時代の友であり恋人でもあり、同士でもあった夫。

 永田紅さん歌集『ぼんやりしているうちに』の中の一首に釘付けになった。

  ・忙しきほうが時間のあるほうをさびしくさせて葉を毟(むし)らしむ

 心の底に響くものがあってしばしこの一首に読み入ってしまった。
 この歌にしみじみ共感した。
 啄木の歌といい、永田紅さんの歌と言い、三十一文字という短詩形の中にこめられたものがどれだけ多くの人の胸を打つことかとおもう。
 歌の中に自分と共振するものがあり、読んでいるうちにその想いが増幅し感動を呼ぶ。

 今日はとびきり華やかな花を買ってこよう。