飛翔

日々の随想です

アメリカ銃乱射事件を考える


(NHKニュースから)
 アメリカのコネチカット州で小学校で銃乱射事件がおこり、多くの児童が亡くなりいたましく悲しい。
 オバマ大統領はやっと銃規制に乗り出した。

 (ANNニュースから)
 このいたましい事件より遡ること5年前の2007年。アメリカのバージニア州で史上最悪の銃乱射事件が起きた。犯人はバージニア工科大学の学生で韓国からの移民の青年だった。アメリカが銃社会であることと人種差別という問題が抵触しあう事件である。
自由の国アメリカはまた人種の坩堝(るつぼ)とも言われている。誰もがなりあがれる国だともいわれているけれど、現実は違う。
それはワスプ(WASP)という言葉に表れているといえよう。
 ワスプ(WASP)とは、ホワイト・アングロサクソンプロテスタントWhite Anglo-Saxon Protestant)の頭文字をとった略語で、米国での白人のエリート支配層を指す語として造られた造語である。
 つまりwhite=白人であること。Anglosaxon=アングロサクソン人種であることProtestant=プロテスタントであること。
 これらを満たすのが白人のエリート支配層を指すのである。

この点を歌人松村由利子は絶妙に詠っていて、そのジャーナリスティックな視線の鋭さに驚かされる。
松村由利子の第一歌集『薄荷色の朝に』短歌研究社刊の中から(NY出張)の章を引いて見よう:

・坩堝にはまだまだ遠くアメリカは白の優れるモザイク模様

まさに上記のワスプ(WASP)のことである。ケネディ時代から連綿とアメリカ社会に続く現象であり、松村由利子がこれを喝破するかのように詠った通りなのだ。

アメリカは人種の坩堝(るつぼ)といわれてはいるけれど、現実のアメリカ社会は白人が優位であり、坩堝(るつぼ)と云う立体的なものでなく平板な白を基調としたモザイク模様でしかない。
松村由利子の歌の魅力は多様性に富んでいること。
それは松村由利子が新聞社の記者として第一線で活躍していたジャーナリストとしての目と働く母である目、サラリーマンの目、一人の女性としての目などその視点は多岐に及んでいるからだろう。

上記の歌はNYに出張したときの歌である。
子どもを思う母の歌を詠む一方、NYに出張するかっこいいジャーナリストでもある。
そのギャップに自身でも苦悩することが多かったのではないかとも思う。
今回の銃乱射に見えるのはアメリカ社会の澱のようなものが透過される。
孤独な韓国からの移民青年の心の闇は理解できない。
しかし、松村由利子の次にあげる歌にはアメリカ社会における自己主張(I)がこの国民にどんな働きをするかを物語っていて興味深いものがある。
韓国の移民青年の心のどこかにもあったかもしれないものが含まれている。

・まず I(アイ) と言わねば始まらぬこの国に住めば強くなれるか

一人称であるI(アイ)は「私は」「私が」である。つまり何でもかんでも先ず「私」と自己の存在を明白に他に知らしめ自分を前面に出す強さがある。
曖昧模糊(あいまいもこ)とか「そこはかとなく」とか「言わぬ美徳」など通じない国であるアメリカ。
そこを絶妙に詠っていて「含羞」(がんしゅう)というものを知る国民性である自分が自己主張の強いアメリカに住めば強くなれるだろうかとある種のアイロニーが含まれていて白眉(はくび)な歌である。

銃乱射と松村由利子の歌から見えるアメリカについてかんがえてみた一日だった。

 ※ 米東部コネティカット州の小学校で子供20人を含む26人が犠牲になった銃乱射事件を受け、1992年に米国留学中に射殺された名古屋市の服部剛丈君(当時16)の母美恵子さん(64)は15日、「本当にひどい」と絶句。取材に対し「銃が簡単に手に入る社会を変えなければいけない。そのためには教育が何よりも大切だ」と訴えた。(日刊スポーツ記事より抜粋引用)