飛翔

日々の随想です

珈琲を歌う


一日に数杯のコーヒーを飲む。
字面で言えば「コーヒー」というとアメリカンコーヒーのようなイメージがする。
「珈琲」と書くと豆からゆっくりと挽いてネルでこしたドリップの味。豊かな香りまで文字から漂ってきそうだ。
「コーヒー」「珈琲」どちらにしてもそこから先ず頭に浮かぶのは「苦味」だろう。
この珈琲の「苦味」を絶妙に詠った歌人が二人いる。

・ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし寺山修司『血と麦』)

・舌を焼く珈琲飲みて子を忘れん苦きを苦きと思わぬ職場松村由利子『薄荷色の朝に』)

東北出身の寺山修司にとって訛りは「方言かなし」と詠んだ時もあり、ふるさとの訛りが自分のアイデンティティーの証として愛する一方、都会人との差を感じさせ愛憎をわかつものでもあった。
それを同郷の友がまるで都会人になりきったように、訛りをわすれてしまったかのような様子はなんとも名状しがたい感情が込み上げてきたのだろう。それを珈琲の「苦味」と重ねたところがこの歌人の才のきらめくところだ。
一方、松村由利子の歌はといえば
・舌を焼く珈琲飲みて子を忘れん苦きを苦きと思わぬ職場松村由利子『薄荷色の朝に』)

新聞社勤務と云う熾烈な職場に記者として身をおくシングルマザーの作者。
子供を置いて働くお母さんというのはつらいものがある。
子供がたとえ熱があろうと、後追いしようと、子供を置いて働かなければならない身。「おかあた〜ん」と泣く子供の声が耳に残ったまま職場に赴く。
その声もなにもかも忘れようとするように舌を焼くような熱い珈琲を飲む。
なんともせつない母の気持がひしひしと迫る。
しかし、その「苦い」珈琲が「苦い」と感じないほど職場は熾烈な戦場のような新聞社という生き馬の目を抜くような職場なのだ。

珈琲という飲み物からイメージする「苦味」をこのように絶妙な心模様の喩えとして詠う両歌人の才に感服である。
きっとみなさんの中にも、大なり小なり、珈琲の「苦味」に人生を想う時があったのではないでしょうか。