飛翔

日々の随想です

私のバイブル

夫と私は大学時代からの友達。長い付き合いだ。
 顔も体つきもまったく似ていないのに、付き合っていたころから兄妹かとよくきかれた。3年前、カンボジアに旅をしたとき、現地の中学生ぐらいの女の子に、夫と私は顔が似ているといわれてびっくりした。顔は似ていないが、雰囲気が似ているのだろう。
 ごく普通の夫婦だと思うけれど、他人からは仲が良いわねといわれて当人同士はきょとんとする。
 そんなごく普通の、他人からは仲が良いといわれている私たちだけれど、夫が自宅で開業したことをきっかけに、私は精神的に夫にべったりと依存することをやめようと思った。自立した一人の人間として活躍したいと思い、学校へ入りなおした。
 学資は以前働いてためておいたわずかばかりの自己資金でまかなうことにした。もちろん夫とは同じように仲良く暮らしている。
 自分の内面をみつめ、学ぶ喜びと、無智の知を知った。
 世界的に活躍している研究者のワークショップに参加したり、書籍を繰り、学校の仲間と切磋琢磨していると、充実していると同時にゼロに近い自分の浅学に焦りを覚えることもある。
 そんな時、この人の本を読む。

神谷美恵子日記 (角川文庫)
神谷 美恵子
角川書店
 
神谷美恵子日記』は25歳から亡くなる前の65歳までの間の日記である.
神谷美恵子さんは1935年、津田英学塾本科を卒業後大学へ進学、結核をわずらう。
その後、アメリカの大学に進むが、日米開戦で帰国。27歳で東京女子医専に入学。
卒業後精神科医になったときは30歳になっていた。
多感な19歳のとき、ハンセン病患者の悲惨な状況をまのあたりにみて、医師を志したのだった。

 当時死の病といわれた結核をわずらい療養生活を経験した神谷さんは死の病から生還でき、自分だけが癒され、生きていることに負い目を感じるようになった。
その負い目がハンセン病患者のために働くことを決意させる動機になった。
 ハンセン病患者の中にも高い精神生活を送っている人を見出して、生きる意味、生きがいについてかんがえるようになったのだろう。

神谷さんはたくさんの著書を出版された。
それらを書く上の苦悩と思索が書かれており、著書が出版されるまで、母として、妻として、生活者として、研究者として、文学者としての
様々な役割を果たした上での血のにじむような結果だと知ることができた。
 生涯をかけて自らの生きがいを懸命に追い続けてきた魂の記録である。

 46歳のときの日記には
「生きているのが苦しいときあなたはどうするの?」
という独り言をしばしば言う自分に気がつくとあった。
結婚生活の幸福のただなかでこういう独り言が無意識にでる自分をふと考えてみるという箇所があって、深く考え込んでしまった。

 この日記を読むと深く思索し、研究、勉学し、己を謙虚に謙虚にいましめ、苦悩する姿に心が揺り動かされる。
 41歳のとき、初期癌に侵されるがラジウム照射でくいとめたりという経験がある。
 大学時代結核をわずらい療養生活を二度し、医師となってからはハンセン病患者の悲惨な状態を見、献身する中から生まれた著作には観念や筆先だけでない真摯な魂がこめられている。

 自分の人生の折節に、読むたびにその想いは異なる。
読み終わって目を上げると静かな深い世界が漂うのを感じる。
 私の人生のバイブルである。

神谷美恵子さんは、美智子皇后(上皇后)が声を失い療養なさっていた折、精神科の医師として友人として音楽を好むものとして御所に出向き精神的に支えられました。

※神谷 美恵子(かみや みえこ、1914年〈大正3年〉1月12日 - 1979年〈昭和54年〉10月22日)は、ハンセン病(神谷生前時は「らい病」と呼称されていた)患者の治療に生涯を捧げたことで知られる女性精神科医で、哲学書の翻訳でも著名である。

「戦時中の東大病院精神科を支えた3人の医師の内の一人」、「戦後にGHQと文部省の折衝を一手に引き受けていた」、「美智子皇后の相談役」などの逸話で知られている。語学の素養と文学の愛好に由来する深い教養を身につけており、自身の優しさと相まって接する人々に大きな影響を与えた。著書の『生きがいについて』は、1966年(昭和41年)の初版刊行から56年が過ぎても、読者に強い感銘を与えている。