厳しい親、優しい親、だめ親父など、親でもさまざまな顔がある。親の背中を見ながら子は育つ。
育って成人して自分も親になる。
親になって初めて親の苦労がわかったりする。
「両親はえらかったのだなあ」としみじみ思い、親孝行せねば・・・と思っているうち、親はすっかり老いて介護するまでとなる。
厳しく、凛とした親がある日わが子に向かって「あなた様はどなたでしょうか?」と尋ねたとしたら?この人はあなたのご主人ですよ(、奥様ですよ)と言うと「そうかもしれない」と答えたとしたら?
一条の光・天井から降る哀しい音 (講談社文芸文庫)耕 治人講談社このアイテムの詳細を見る |
本書は六篇の短編(「詩人に死が訪れるとき」「この世に招かれてきた客」「一条の光」、「天井から降る哀しい音」「どんなご縁で」「そうかもしれない」)から構成されている。
「詩人に死が訪れるとき」と「この世に招かれてきた客」は、詩人千家元麿について書いたものである。千家元麿を尊敬し私淑していた著者が千家の死後21年後にその死について書いたものを出版。「この世に招かれてきた客」は川端康成の弟に土地を貸したことをきっかけに争いごとがおき、著者は精神を病み入院。その後、退院し、千家元麿の詩を読み直して千家の人物について再発見したことなどをかきしるしたものだ。
「天井から降る哀しい音」「どんなご縁で」「そうかもしれない」は妻と夫の老境の日々を書いたもの。妻が八十歳で脳軟化症になり、老人性痴呆症になり、金銭感覚がなくなり、鍋を焦がし、ぼやを出す。
そんな日々を同じ八十歳の夫が介護するが、夫も体力の限界がくる。しかも、おりあしく夫は癌に侵され入院。
妻は老人ホームへ、夫は癌で入院。老いの哀しみが切々とにじむ。
入院中の夫を見舞った妻に、「あなたのご主人ですよ」というと「そうかもしれない」と答える妻。
金持ちにも、貧乏な人にも等しくやってくる老い。かつて喧嘩しながらも共に歩んできた夫婦も老いて行く。誰にも老いと死をとめることはできない。
老いたものが老いた者を介護する昨今。息子や娘の顔を忘れ、生涯を共にした妻や夫のことさえも覚えていない日々を見つめて行かねばならないのはせつないものである。しかし、何もかも忘れて(痴呆となって)、一切から解放され、それが彼岸への道ならば、それは現世からの解放かもしれない。
五十年余連れ添った老夫婦の終焉を著者は万感こめて静かに書ききった。
静かで清い魂の声のする作品だった。
読売文学賞受賞、平林賞受賞作品。
八十歳の最晩年までこの作品を見事に書ききって逝った著者「耕 治人」の作品に秋の日の寂寥がかさなった。