飛翔

日々の随想です

見えない言葉


この一ヶ月の間にいろいろなことがあった。
 ブログには苦しいことは書かない。書けない。言葉が時としてあふれるようにあったのに、書けなくなった。その間、胸の奥深いところで思考している。言葉というのは何だろうか?
 悲しみにある人に支えとなるような言葉はきっとあるのだろう。それが一生涯の杖となってその人を支えることがあるかもしれない。でも、私には今、その言葉がない。ただむなしくブログをうめている。
 ブログを埋めている言葉はうそっぱっちなのだろうか?
 いや、そうではない。ただ、どんなに言葉をあふれるほど知っていても、思っているすべてを綴ることができない。
  小学校の高学年になったころのことだった。
 私は大怪我をおって家に帰ってきたことがあった。母はいきなり私を抱いて胸をはだけて乳をふくませた。
母のひざからはみ出るほど大きななりをして、私は泣きながら母のおっぱいをすった。
母は黙って抱きしめることだってできたはずなのに、大きな私になぜそんなことをしただろう?母というものは理屈や言葉でない何かが備わっているのだ。
 一滴もでない乳だが、見えない乳があふれんばかりに私を満たした。それは今も私を満たし続けている。
母はもうこの世にいないけれど、目には見えない大きなものは私を満たしてくれている。
 愛する人を失う悲しみははかりしれないけれど、見えない大きなものは決して失われない。