飛翔

日々の随想です

割烹着と糠(ぬか)どこ


 子供の頃、私は「キュウリ夫人」というあだ名だった。名付け親は母である。母のぬか漬けのきゅうりが大好きで、これがないと不機嫌な子だったからだ。
 台所の床板を二、三枚はずすと、大きなぬか漬けの甕(かめ)があった。きゅうりや茄子、蕪(かぶ)など季節の野菜を色よく漬ける母は、ぬか漬け名人である。母のぬか床は母の母、つまり私の祖母から受け継いだぬか床である。これを母は、一日に何回もかきまわしていた。
 「ぬか床は生きているのよ」
 と母は言う。さらにこういって私を驚かせるのだった。
 「ぬか床はね、風邪をひくこともあれば、ご機嫌斜めになることもあるのよ」
 と言って肩をすくめて笑うのだった。
 ぬか床が「風邪をひく」とは気温の変化によって味が落ちることを言うのだそうだ。また「ご機嫌斜めになる」とは手入れを怠ると、とたんに、すっぱくなって味がトゲトゲするのだそうだ。そう言われると確かにぬか床は「生きている」ようだ。
 祖母から母へと受け継がれたぬか床は代々、台所を預かる女たちによって、愛情をこめて守り育てられてきたものだ。
 母はこのぬか漬けを盛る器を季節ごとに変えた。また、他の料理との調和をはかって変えたりもした。さらに切り方まで変えるのである。
 
 ある夏の夜更け。のどが渇いて目が覚めた。台所へ行くと母がぬか床をかきまわしていた。
 「こんな夜更けにどうしたの?」
 と尋ねると、母は
 「あなたが食べる時刻にちょうどおいしくなるよう、時間を逆算していたのよ.今がちょうどいい頃だから漬けていたところよ」
 と言った。
 私は母が食べごろを逆算して漬けていたなどと、その時までまったく知らなかった。母のおいしく食べてもらおうと言う心遣いに胸がいっぱいになった。
 翌日の食卓にはガラスの器に砕いた氷が敷き詰められ、その上にみずみずしい、きゅうりと茄子のぬか漬けが盛り付けられていた。
 「わ!涼しそう」
 そういうと真っ先にお箸をつけてパリパリといい音をさせて食べた。
 食べ終わって食器を片付けようとすると氷はすっかり溶けて、後に妙なものが乗っていた。見るとそれはガラスで出来たスノコだった。母がそばに来て
 「気がついた?それが欲しくて何年も探していたのよ」
 と嬉しそうにニコニコしていた。
 お刺身やサラダ、漬物などを盛るとき、水分が残る。そこで水分だけスノコの下に流れるようにガラス製のスノコが工夫された。それを何年もかけて探していた母だった。尋ねなければ知る由もないことであった。
 家事は誰にも評価されることがない。家族のものは当たり前のように食事をし、洗濯されたものを着、日光に干されたぽかぽかの寝具に当たり前のようにくるまって寝ているのだ。母のようにおいしくたべてもらおうと心配りをし、何年もかけて食器を探していたことなど誰も気付かずに過ぎてしまうのだ。感謝やねぎらいの言葉をかけることもなくである。
 こうして家族の為に身を粉(こ)にして立ち働いてくれた母が真冬の寒い中、一筋の煙となって天に召された。
 葬儀の後片付けや、あいさつ回りがすみ、悲しみが実感となってきた頃、台所で洗い物をしようとした私は流しの前で「あっ!」と声をあげた。母が毎日かき回していたぬか床の存在を思い出したのだ。
 甕(かめ)のふたをおそるおそる開けた。母が最後に漬けたきゅうりがすっかり古漬けとなってでてきた。甕の底から上のほうまで丁寧にかきまわし、塩をきつめに振ってふたを閉めた。
 隣の部屋から姉二人が、着物の形見分けをする声が聞こえてきた。台所の隅には主(あるじ)をなくした白い割烹着が所在なげに壁にかかっているのが見えた。
 急に母が亡くなったことが実感となって、私をおそった。全身の力が抜け、へなへなと台所の床にへたりこんだ。
と、その時、
「ぬか床は生きているのよ」
母の言葉がよみがえってきた。
(そうだ。ぬか床は生きているのだ。ぬか床には母の心が宿っている。あんなに丹精こめ、育ててきたぬか床だもの。ぬか床を守らねば! 私が守ってみせる)
 母が祖母から受け継いだときも、きっと同じように思ったに違いない。ぬか床は生きている。母の心もこの中に生きている。
母のぬか床と真っ白な割烹着を形見としてもらおうと、私は固く心に決めたのだった。