飛翔

日々の随想です

喜多流名人能役者 『六平太芸談』より

 能の稽古(謡と仕舞い)に出かけた。
 『芭蕉』を稽古したのだけれど、あるところへ来ると何回やってもうまくいかない。師も親身になって稽古をつけてくれるのだけれど、さすがにあまりにも不出来な私にとうとう匙をなげてしまわれた。

 「駄目なときは何回やっても駄目だから今日はもうやめやめ!」とご立腹。
 われながら情けない。涙が出てくる。次のお弟子さんの稽古を見学して勉強。
 帰ろうとすると師が「もう一回やってごらん」とおっしゃるのであわてて稽古をつけてもらったのだけれど、やっぱり上手くいかない。
 とうとう師は匙を再度なげてしまわれた。

 夕食後、そういえば喜多流名人能役者 喜多六平太著 「六平太芸談」(同信社)に能『芭蕉』についての芸談が載っていたことを思い出して読み直してみることにした。

 『六平太芸談』の中から「(稽古の後)にの章」から能『芭蕉という曲』から引用してみよう;

芭蕉という能がむずかしいと言えばこれくらい難しい能はありませんよ。
元来序の舞というものは、非常にキメの細かい、そして艶麗でほんのりとした気分でなくちゃいけないものなんですから、どうしても小面が一番具合がいいようにできているんです。
それを曲見(しゃくみ)ですからね、どうやっていいか、舞っているものでも見当のつかないものです。
(省略)
月の澄んだ秋の夜の草庵のほとりに、ありがたい読経にしみじみと聴き入っているわびしい女の姿、それをあの僅かに舞台を一回りするだけの型で見せるんですからね。ですからシカけてもヒライてもその一つ一つの型が、どれもこれも動いている形でつく、佇んでいる姿に見えなきゃいけないんです。
こんな無理な注文はありません。

とあった。
そうか・・・名人にして「難しい」とおっしゃっているのだから私如きの素人が逆さになったってうまくなったり、分かるようになるわけがない。と今日師からしかられたことの言い訳にして心を安んじようとした。
しかし、そのあと、さらに他の能についての芸談を読むと私の考え違い、身の程知らず、傲慢さを思い知るのだった。
それはかいつまんで書くと次のようなことである:

乱拍子百篇の稽古』の章でのこと。
道成寺の乱拍子は百篇稽古しなければいけないといわれる難物。
六平太名人は真っ正直に百篇稽古したそうだ。

※乱拍子は小鼓の一調に笛のあしらいが入って、その小鼓の音と一種低強い掛け声とがシテの動作とに互いにせりあうというような意気込みのもので、位は極めて静かなものなのに、内に籠る力の実に激しいもの。

『その乱拍子の申し合わせで小鼓方幸流の錦吾さんと稽古した六平太師。
互いに手をぎゅっとにぎって錦吾さんが腹の中で乱拍子を打つ。
六平太師が腹の中で乱拍子を踏む。そのとき同時に掛け声が出れば及第。

次は二人の間に屏風を立てて、互いの顔も、姿も見えず、ただ気合ひとつで双方掛け声を賭ける。それがぴたりと合う。それは時計ではかったりしてもあうものではないのである。
時計などのような機械と違うところに「芸」というものがある。
以心伝心。まさに体から体に意を伝える方法である。
たしかにこれは秘伝であるに相違ない

この話から分かることは、名人は一日にして成らず。
百篇の稽古をし、上記のような機械などでは測りえない人間の「意気込み」「気合」「稽古百篇」から生まれたものが「芸」なのだといえよう。

それと同じような稽古は他にもある。
能「二人静」は二人でひとりのように舞うこれまた難曲である。
これを六平太師は三十偏も稽古し、最後にははずそうと思ってもはずれなくなるほど、ぴったりとあった頃にはなんと八十偏もやったという。

これは実にすごい芸談である。

八十偏の稽古により、はずそうにもはずれっこなくなるほどぴったり合う「二人静」の舞というのはすごい!
稽古、鍛錬が「芸」を生みだすのだ。

私が師から稽古途中で匙を投げられたのも稽古不足、努力不足のせい。

 何もこれらは能楽だけの話に限らないと思う。
 一流、名人といわれる人は必ず血のにじむような努力があってのこと。

 『六平太芸談』はわたしにとってかけがえのない大切な一冊である。