飛翔

日々の随想です

さまざまのこと思ひ出す桜かな

花は散ってしまうと無残になるものがある。
花の女王薔薇でさえもガクの部分にしがみつくように花びらの一片が残っていたりする姿はいたましい。
それにひきかえ桜はどうだろう。
ぱっと咲いたかとおもうと惜しむ暇もなくぱっと散ってしまう。
散った花びらは「花吹雪」となってうすべにのひとひらが可憐に舞うのである。
そして川もに漂うとき、それは川全体がうすべにのグラデーションとなってくだっていくのである。
それはあたかも筏(いかだ)の風情。
まさに「花筏」である。

花は桜木。人は武士。良くも悪くもぱっと咲いてぱっと散る無常観は日本人の心の底流にながれるものなのだろうか。

明るい春の日差しの中、野山は一面のパステルカラー。
心軽やかに浮き立つときでもある。
その浮き立つ中、散り行く花に、もの想う日本人とは何と細やかな情緒の持ち主なのだろう。

っとうっとりするのだけれども、それをかき消すようにお花見での落花狼藉。
花より団子。花より酒。花より馬鹿騒ぎのランチキが「お花見」の代名詞となるのはそう遅くないことだろうか。

西行の時代でも同じようなことだったようだ。
西行は桜ばかとよばれるほど桜の花を愛した人だった。
その西行が花見の客の騒々しさに嫌気がさして、庵の中のあちこちに花見禁制を出す。
そこへ洛中下京あたりからの花見の客が押しかけてくる。
おもわず西行は「花見んと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜の咎(とが)にはありける」と詠む。

つまり「桜よ、お前さんが悪いんだ」と桜に八つ当たり。
そこへ桜の精が現れて「桜ゆえに集う人のわずらわしさ」と云う西行の考え方は人間の考えかただと答える。
桜は無心の草木であり、人間世界でいう咎(とが)などであろうはずがないという。

これはお能西行桜」の演目である。

いずれのときでも美しさを美しいものと心静かにめでるのは所詮無理なことなのであろうか。
奇しくも同じ話が佐藤春夫著「支那童話集」の中にあった。

そのなかの一編「百花村物語」。

主人公は秋先という一人住まいの老翁。花を眺めては愛で、育ててはこれを愛し、四季を通じて花をたやさずにいる無類の花好き。
その愛好ぶりはといえば、もう散ってしまった花びらでさえも捨てないで皿の上にのせて眺め、ひからびると甕に入れ花のお弔いをするほど。また花びらが雨に打たれて泥の中にうめられると、幾度も幾度も洗い清めてそれを湖上に流すのだった。それを彼は花の浴(ゆあ)みだと思うのだった。

主人公は花を手折るものへ次のように言う:
「一たい花といふものは一年に一度だけ咲くものです。四季のうちたった一つの季節だけで、そのうちでもまたほんの五六日だけのものです。あとの三つの季節の冷淡な仕打ちを、かの女がじっとこらえて来るのも、このほんの幾日かを世の中へ出て、光や風に逢いたいという一念からなのです。これがふいに折りとられてしまいます。咲き出すのには長い辛苦で、折りとられるのはほんの瞬きをする間のことです。
花はものをいえないけれども、花だってこれが悲しくないことがありましょうか。」

花を手折る人を嫌って一時、秋先は庭を閉じてしまう。しかし、それは己の傲慢と知って後に村人に開放するが、それはお能西行桜」の物語にも一脈通じていて興味深かった。

と私は思うのだった。
桜の話から随分長い文章になってしまった。

さまざまのこと思ひ出す桜かな芭蕉

まさにみなそれぞの「桜」感があろう。

今の時期、花の風情に心を寄せてみようではないか。