昨日は強風が吹き荒れて寒い一日だった。
夕食のとき、夫が「寒いね」と言うので「寒いわね」と答えると、顔を覗き込んでまた「今日は飛び切り寒いね」と含みのある顔をする。「はは〜ん」と思ったが、「ストーブがついているからすぐ温まるわよ」と言うと「意地悪いわずに一本つけてよ」と、とうとう言い出した。夫はジャックダニエルを、私は白ワインを飲むことにした。
飲むほどに酔うほどに気分が良くなって会話が弾む。「おかずが少々悪くても会話がご馳走!な〜んちゃって!」と料理べたの言い訳をする。
春の味覚「せり」が手に入ったのでおひたしにする。
菜の花の苦味や、せりの香り、蕗のほろ苦さがおいしいと思うようになったのはいつのことだったのだろう。人生のにがみだけは知りたくないものだが・・・。
夫婦という最も身近な他人と生活するということは考えてみれば冒険だ。
環境も育ちも違う赤の他人が恋をして結ばれる。相手を良く知るにはとてつもない時間がかかるものだ。それなのに赤い糸伝説の元、他人同士が日々生活するのであるから、面白いといえばこれほど面白いことはない。新生活をスタートして新発見のことが多い。良くも悪くも毎日が発見だ。そして何年も経つと空気のような存在となるのだから不思議なえにしとしか言いようがない。
無口な夫と陽気な妻。我々夫婦はそんな感じだった。それがいつのまにか同化してきた。
結婚前、どこへ行っても似ているといわれ、兄弟かと聞かれることが多かった。
私は当然のことながら怒り心頭!「似ても似つかない!」と怒ったものだ。
それが去年ベトナムとカンボジアの旅をしていて、カンボジアのアンコールワットの夕日を見ていたとき、カンボジアの女の子に「あなたたち兄弟?」と聞かれてびっくり仰天した。私は二重まぶたのソース顔。夫は一重まぶたの醤油顔。どこが似ているのか信じがたいことだ。
詩人の四元 康祐はその詩集『妻の右舷』(集英社 )の中にある「妻を読む」でこう書いている。
「妻を読む」
妻は言葉では書かれていないので
長編小説を朝までかかって
読みあげるようには
ゆかない
(省略)
字面ではなく文体を捉えたい
妻からも自分からも遠くはなれた静かな場所で/
大気に雪の気配を嗅ぐ小枝のように
妻を読みたい
と(一生一緒に生きてゆくだけでは満足できずに)、(表情でも仕草でもなく)妻そのひとを読みたいと詠いあげる著者。
夫と私は年月を経て同化した部分はあるが、やはりまだ未知なる人なのである。私もこの詩人のひそみにならうならば、「夫そのひとを読みたい」と思う。
生涯かけて熟読玩味しても読みきれない書物。それは人の心という本だろうか。
愛を越えた愛があるならばそれは相手を知り得ない哀しみにも通じるのかもしれない。
言い換えるなら、朝晩顔を突き合わせていても存在丸ごと、魂の深部まで知りえないことへの憂いにも似たものである。
- 作者: 四元康祐
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2006/03/03
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