稽古しているお能の師は毎年二回ほど弟子たちと旅行へ行く。
人間国宝とご一緒できる旅などめったにできるものではないので皆大喜び。
勿論お能にちなんだところへの旅である。
お能版「歌枕紀行」のようなものである。
福島と四国に行く予定となっていたが、コロナ禍で中止。
ところでお能の囃子といえば、大小の鼓、太鼓、笛だけである。
オーケストラのように指揮者がいるわけではない。
しかもゲネプロ(リハーサル)はたったの一回こっきり。
しかも、間違えたり、つかえたりしても、途中でやめたり、今のところをもう一回などということも断じてないのである。
リハーサルといえども真剣勝負。
一回きりのリハーサルなのだから演者も囃子方(はやしかた)も本番と同じ一期一会のときを過ごす。
さて、今日はお能の囃し方でなく、邦楽の囃し方(歌舞伎や清元など)の名人の芸談を紹介しようと思う。
以前の中日新聞に載っていた芸談である。
政治談議、文学談義、芸能談義はたまた酒談義などと談論風発は結構なことである。
さて、この内、芸談義なるものはあまりおめにかからない。
名人からその芸談なるものを伺うのは高弟か、専門的な立場にある者などに限られている。
しかし、これが芸どころといわれている中部地方(愛知・岐阜・三紀)をテリトリーとしている中日新聞の芸能レビューは
「芸どころ」の呼び名にふさわしく奥行きが深い。
能・狂言・邦楽のレビューがあって楽しみにしている読者も多く、その評論も格調がある。
さて今日取り上げるのは評論でなく先に挙げた「芸談」。
「芸ひとすじ」と題するこの欄は名人・人間国宝の方から日ごろめったに聞くことができない「芸」についてのとっておきのお話が聞ける極上のコラムである。
邦楽囃子方小鼓名人(人間国宝) 堅田喜三久(かただきさく)氏の芸談。
めったに聞くことができない話だったのでここに紹介しようと思う。
「演奏中は後ろから三味線が聞こえてくるので、目をつむって、三味線の音をキャッチする。
自然に勘が働く。
お互いが同じ力に見えるが、実際は九割が囃子方の感性で、一割が地方(じがた)。
地方が狙いすぎると演奏が盛り上がらない」
との話からはじまる。
その肝心の勘と感性を鍛えるための秘策を語ってくれるのだから嬉しい。
それは次のよう:
「目をつぶって”五十歩 歩き”」
をするという。それはどんなものかと言うと、
「目をつぶったまま、地下鉄の階段を重い荷物を両手に持って二段降りして勘を磨き、反射神経を鍛える」という。
さらに
「 勘が冴える舞台は「最終的に《意気》を合わせて盛り上げる。まさに気合です」
と話は続くのであった。
まさに「名人は一日にしてならず」。
泉鏡花の『歌行燈』では鼓を打つ様子を
「肩に綾なす鼓の手影、雲井の胴に光りさし、艶が添って、名誉が籠めた心の花に、調べの緒の色、颯と燃え、ヤオ、と一つ声が懸かる。」
と能の序破急に乗って芸の至高、深み、恐ろしさ、法悦の極みを鏡花の美学を尽くして書き表した。
さて、一方虚構の人物でなく現実の鼓の名人はといえば、地道な努力が玉を結ぶことを物語っていて滋味深い。
「目をつぶったまま、地下鉄の階段を重い荷物を両手に持って二段降りして勘を磨き、反射神経を鍛える」
この言葉に思わず新聞を持ったまま頭(こうべ)を垂れてしまったのであった。
「日々是鍛錬」
新聞の芸能コラムにして満貫の重みここにあり。