飛翔

日々の随想です

歌行燈

 桑名の旅籠(はたご)屋「湊屋」へ弥次郎兵衛、捻平(ねじへい)などと、東海道中「膝栗毛」をしゃれ込んだ老人二人が人力車でやってくる。
何とも滑稽味を帯びた会話が繰り広げられるうち、うどんやの前で博多節を流す門附(かどつけ)の男とすれ違い互いにただならぬものを感じあう。

「歌行燈」はこのような出だしからはじまり、二つの過去(老人達に語る芸者お三重の過去と、うどん屋に語る門附の喜多八の過去)が同時進行しつつもゆるやかに次第に急峻な流れとなってくりひろげられるのである。
二人の老人は能役者の恩地源三郎と小鼓方名人辺見雪叟。
門付けに落ちぶれたのは源三郎に勘当された甥の喜多八である。芸のできない芸者、(ただ能を一差し舞えるだけ)のお三重。
喜多八に辱められ憤死した按摩の宋山。
これらの人物の過去をからめて能楽「海士」の秘曲に乗せて鏡花は能楽序破急にあわせるごとく言葉の調べの極みを尽くすのである。

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「黒髪うつる藤紫、肩も腕もなよやかながら、袖に構えた扇の利剣、霜夜に声も凛々と、」
「肩に綾なす鼓の手影、雲井の胴に光りさし、艶が添って、名誉が籠めた心の花に、調べの緒の色、颯と燃え、ヤオ、と一つ声が懸かる。」
「緑の黒髪かけて、颯と翳すや舞扇は、銀地に、その、雲も恋人の影も立添う、光を放って、ともしびを白めて舞うのである
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 …と、かくも美しい言葉の調べはまさに鏡花の美。
能楽序破急にのり言葉の調べの美しさはその極みに達するのであるが、本書の主題は「芸」。
芸の至高、深み、恐ろしさ、法悦の極みを言葉に尽くした先にあるもの、それが本書であろうか。
美しい日本語の調べに酔う妙味を味わせてくれる鏡花の傑作中の傑作。

※解説で吉田精一氏は「歌行燈」の素材について:
宝生九郎、と天才的な門人瀬尾要との関係を視野に入れつつも、
鏡花の叔父、宝生流の名手松本金太郎と作中人物恩地源三郎は宝生流家元、九郎の人柄を加味して練り上げたものだろうとしている。

おりしも、2005年2月7日付けの中日新聞芸能欄に「歌行燈」のモデルと題するコラムが載っていたので一部を付しておこう。(中日新聞では「歌行燈」が連載中)

「主人公の転落の能楽師恩地喜多八には、数人のモデルがいるとされてきた。
その一人が明治中期、宝生流シテのホープから失墜した木村安吉である。

名古屋の能楽の歴史に詳しい能楽師筧鉱一さんによると
廃藩後、尾張藩士から能楽師に転身した木村治一の息子安吉は、深い仲となった日本舞踊の師匠にタブーを破り仕舞いを教えて破門。
能楽界から追放されたという。
ある日、素人謡会に呼ばれた安吉が端役ながら「そこのき候へ」の一句を謡いそのすさまじさに並み居る連中が震え上がったという。
後に能楽界に復帰するも不遇の内に早世したという。