飛翔

日々の随想です

ありがとう

 「ありがとう」の心は美しく、なによりも報われる言葉だ。 
 母は家事を決して手を抜くことはなかった。特に食事は手間隙かけていた。叔父が訪ねてくるときは、二三日前から叔父の好きな「身欠きにしんの甘露煮」を作るために準備していた。三日前にすることは、乾燥した身欠きにしんを水につけてあくを抜いておく作業だ。翌日は、あくぬきしたにしんを番茶で煮出すのだ。何回もゆでこぼしてはやわらかくなるまであくを抜き煮る。そして当日は朝から甘辛く煮るのだ。
 こっくりとやわらかく煮含められたにしんは一口食べると身がほろりととけて、甘辛さの中に寒風にさらされ乾燥したニシンの風味がとけだして絶妙な味になっている。
 叔父は好物をだされて嬉しそうに笑う。そして一口食べると、
 「やっぱり姉さんの身欠きにしんの煮物は最高だ。土産に持って帰りたいから少しくれない?」
 と母におねだりをする。
 母は嬉しそうに顔をほころばせてせっせと器に詰める。
「ありがとう、姉さん」
 叔父の言葉は作ったもののねぎらいの言葉としては最高に嬉しいものだ。おいしそうな顔。おいしいと素直に伝える言葉。土産に持って帰りたいほどおいしいとおねだりする様子。心からの感謝の言葉。
 嬉しい感情と感謝をすぐに、その場で率直に伝える。こんなすがすがしいことはない。
その一方で、先日、無言の「ありがとう」を経験した。それはカラになった夫の弁当箱を洗おうとしていた時のことだった。夫のお弁当箱をあけると、いつも洗ってある。
 「いつも洗ってくれているのね」
 と言うと、夫は、
 「お弁当を作ってくれて「ありがとう」と毎回言いたいのだけれど、なかなか気持ちを表せないから、せめて食べた後のお弁当箱は洗っておこうとおもってさ!」
 と言った。無口だけれどこんな「ありがとう」もあるのかと思った。
 
 子どものころ母が台所で煮物をコトコトと煮ていた。朝から準備していたものだ。
 食卓で家族そろって夕飯を食べた。私は母の煮物が大好きでおいしくてしかたがないとおもった。
 「おいしい!こんなおいしいもの食べたことがない!」
 と大声で言った。
 姉が「おおげさなんだから!」と言って、またみんなで黙々と食べた。私はおおげさなんかでない!おいしいという感情をこんな言葉でしか母に伝えられない自分が情けなく、残念でお茶碗を持ったまま泣いた。
  言葉というものは心の表れである。どんなに幼く言葉足らずでも口に出さない限り相手には伝わらない。
 母は私に「あなたは、お母さんの宝物よ」とよく言った。この言葉がどれだけ私を励まし、支えてきたかしれない。私の宝物は母のこの言葉だ。
 ランドセルをかたかたと鳴らしながら一目散(いちもくさん)にかけて帰る私は、玄関をあけるとそこに母の真っ白な割烹着姿があれば、それだけで幸せだった。姉たちが帰る前の数時間は、母と私の蜜月タイムだった。
 母が作ったものを、もっとしっかりと伝える言葉が欲しいと思った幼児の頃の思いは、今も尚私を言葉に向かわせているのだ。