飛翔

日々の随想です

偲んで

生涯を家族のため、人のために尽くして、ひっそりと世を去った母を偲びたいと思います。
  「シャツ」
母は思わぬ場所で亡くなった。
師走のある日、母の小学校時代からの親友の病気見舞いに、朝から好物の煮物を作って、バスで病院へ行く途中の出来事だった。
バスに乗ってすぐ、母は気分が悪くなり、次の停留所で降りた。
停留所の前には信用金庫があり、その壁にもたれるようにして休んだ。
休む間もなく、母は崩れ落ちるように地面に倒れた。
通りを行き交う人の中で、一人の若い女性が母に気がつき、声をかけた。
意識がないのを確かめ救急車が呼ばれ、母は病院へ緊急搬送された。
バッグに入っていた名刺から連絡が入り、家族が駆けつけたが、脳内出血のため、母はすでに息を引き取った後だった。
母が肌着として身につけていたものを見て、家族一同は、あっと驚いた。それは亡き父が愛用していたラクダのシャツだった。
父亡き後、母は、こうして父のシャツを身につけて偲んでいたのだと知り、胸を衝かれた。明治生まれの母は慎ましく凛とした人だった。父が亡くなったとき、人前で涙をみせることを恥と思ったのか、すっとどこかへ消えていったかと思うと、人影のないところで泣いていた。
昔かたぎの父と母は、愛情表現を口にだすことはなかったけれど、母は父のためになることは何でもした。
クーラーボックスをかついで、バスを乗り継ぎ、父が好きな魚を買いに魚河岸まで出かける毎日だった。
自分のことは二の次、三の次にし、夫や子供たちのために身を粉にして働いてきた。
 一方、父はといえば、読書をこよなく愛し、時々、ユーモラスなことを言って娘や妻が笑い転げるのを愉快そうに眺めるだけの人だった。
 二人の楽しみといえば、朝顔作りだった。       
 新婚時代のエピソードを母がこっそり教えてくれたことがあった。

 それは新婚まもない夏のある朝、母は父に
「ねえ、あなた、朝顔のアンドンづくりってどうやるのかしら」
 と尋ねた。植物にはまるで縁がなく、関心もなかった父は、慌てて、知り合いに朝顔のアンドン作りを教えてもらい、きれいな朝顔を咲かせることができたそうだ。
夫の面目をかろうじて保った父を想像すると顔がほころぶ。
実は母は盆栽や植物にうるさい父親に育てられたので朝顔のアンドン作りなどお手の物だったらしい。
母は植物を育てるのもうまいが、夫を育てるのもうまかったようだ。
夏の早朝、父と母が朝顔を眺めながらほのぼのとした会話をしていたのを、子供心に嬉しかったのを覚えている。
我が家では、父と母の誕生日や結婚記念日を特にすることはなく、母の美味しい料理が食卓に並ぶだけだった。しかし、父が古希を迎えたとき、珍しく誕生日の宴を開いた。寒がりの父のため、母は奮発してラクダのシャツを贈った。
父は外国人と間違われるほど彫りの深い容貌で、ツイードのジャケットを素敵に着こなす人だった。
 その父が、よほど嬉しかったのか、ラクダのシャツを着て、ひょうきんにクルリと一回転して喜ぶさまは、家族の笑いを誘い、古希の宴は大いに盛りあがったのだった。
その後、何回もの冬がやってきた。そのたびに、ラクダのシャツは父の体と心を温めてきた。ただの下着とは言え、純毛で軽くて温かい。おまけに長年連れ添った妻が贈ってくれたものだ。 多くを語らない父だったけれど、シャツを着るたびに、
「あったかいなあ、このシャツ」
 と言って母をみるのだった。
下着姿のままだと、ただのおじさんの父が、その上にスーツを着ると、どこの英国紳士かと見違えるほど変身した。
 その姿を惚れ惚れと眺める母のまなざしはどこか誇らしそうに見えた。
そんな父が亡くなって、母は急に体がひとまわり小さくなった。
寒さが増したその日。母はバスに乗って出かけ、そして不帰の人となった。
 母の最期を看取ったのは家族の誰でもなく、肌身につけた父のラクダのシャツだけだった。      
 長年連れ添った夫への愛惜と追慕の情をそこにみて、私は声をあげて泣いた。
 娘にさえ、告げることができなかった悲しみと愛の深さを想う。
 母の最期はあっけなかったけれど、父の形見のシャツが母を温めて天国に送ってくれたに違いない。
 生前の父を温めたように。