飛翔

日々の随想です

散歩と足音


 散歩の魅力は何だろうか?
 それは車に乗っていては見えないもの、味わえないもの、感じられないものを味わえることだろう。
 自分の歩幅で自由気ままに歩けることはなんともいえない爽快感がある。 
 車では見過ごしてしまうもの。それは道端に咲いている花だったり、すれ違いざまにかわす挨拶だったり、ほほえみだったりする。
 大きな道でなく路地を歩く楽しみは格別なものがある。夕暮れ時になると家々からただよう夕餉のにおいや音。あ、ここの家は今日はカレーだなとか、お醤油のこげるような香ばしいにおいに,今夜のおかずは何だろう?と想像したりする。
      
 また昼間は家々の軒先に丹精した花を愛でる楽しみがある。
 狭い空間にささやかな緑があり花がある様は心がなごむ。水遣りしている人と花を囲んでつかのまの花談義をかわすのも人情味があってよい。

 路地には近代化されない昔の風情が残っていたりする。
 おや?こんなところに?とおもうような場所に常夜灯があったりする。
 お地蔵様が祀ってある。よく見ると新鮮なお花が供えてあって、赤い頭巾をかぶっている。近くの人たちがよくお世話をしているのだろう。

 昔ながらの建築の粋をうかがわせるような門があったりする。門のすかし模様の細工が素晴らしい。欄間(らんま)職人のわざのさえがそこにはある。

 また様々な音を拾う楽しみもある。
 それは鳥の声だったり、子供たちの声だったり、生活音だったり。

 夕暮れ時、お風呂に入っているのだろうか、子供と父親の声がもれて聞こえる。
「は〜い、お耳をふさいで!お湯をかけるるよ〜」などは、なんともほのぼのとする音だ。

 音といえば母が私にクイズを出したことがある。それは奇妙なクイズだった。
「花や木や野菜の一番の肥料はなんですか?」というものだった。
「簡単、簡単、油粕に水だ〜ァ」と答えると「はずれ!」と言われた。

 母は植物のお医者さんのような人だった。植物を枯らしてしまってどうしようもなくなった近隣の人が植木鉢を母に預けていく。すると枯れたはずの植物がそのうち芽をだしてきたりする。母が亡くなった日、我が家にあったゴムの木が全滅した。母が一本のゴムの木から次々と増やしていったものだ。
 母の小さな温室の植物も葉っぱが真っ黒になって絶滅した。不思議な現象だった。

 母は植物を育てるのが上手だったけれど人を育てるのもうまかったように思う。
 父は植物にはまるで関心がなかったのに、新婚時代、朝顔のアンドンづくりをしようと母に提案された。母がアンドン仕立てを作りながら「ねえ、あなた、朝顔のアンドンづくりって、これでよろしいのでしょうか?」と尋ねたそうだ。
 新婚の妻に聞かれた夫としては何としてもこたえてやりたいといろいろな人に聞いたり調べたりしたそうだ。やがてそのあんどんづくりにきれいな朝顔が咲いて二人して喜んだそうだ。夫としてのプライドもたもてたし、二人して作る喜びも知ったとか。

 実は母は盆栽や植物にうるさい父親に育てられたので朝顔のアンドン作りなどお手の物だったらしい。それからというもの、双方が亡くなるまで朝顔は毎年我が家の庭に植えられるようになった。
夏の早朝、父と母が朝顔を眺めながらほのぼのとした会話をしていたのが記憶に残っている。

 さて話をクイズの答えに戻すことにしよう。花や木や野菜の一番の肥料は何ですかというクイズ。正解は「人間の足音」。
 つまりこまめに植物の様子を見たり、水やりしたりして手をかけること、足しげく花の様子を見に行く足音。つまり愛情が肥料なのだということなのである。

 今日も路地を歩きながら家々の軒先に咲く花に母が出したクイズの答え「人間の足音」を聞くのである。