飛翔

日々の随想です

しらたまの


宿題ほどきらいなものはない。
先ず漢字の書き取りの宿題。これは流れ作業でやったものだ。つまり、草冠がつくものを練習する場合、草冠だけ先に50ぐらい書く。次に下の文字をテレビを見ながら書くのであるから覚えるわけがない。
自分の部屋が与えられたけれど、部屋で勉強したことがない。
いつも居間の掘りごたつでやった。
掘りごたつは夏には布団は片づけられて足が伸ばせて快適な家具である。
自分の部屋で勉強しなさいといくら注意されてもこの場所が大好きな私は居間でやり続けた。


台所で母がおいしいものを作っている匂いや音が聞こえるし、姉がピアノを練習しているのが聞こえてくる。 
日曜日などは父が燗(かん)をつけたお銚子とおつまみを肴(さかな)にテレビでお相撲をみるのにつきあった。
たまには母も一緒に小唄や歌舞伎中継を見る。
 そのそばで私も両親の会話を聞くのが好きだった。
「お父様、えびさま(市川海老蔵)はいつみても眼千両でいいですわねえ」
「うん。僕は羽左衛門(うざえもん)がいいなあ」などと話している。

 時には邦楽番組の小唄をやっていると父が母に
「この年増の姐さんの喉は渋いなあ」と言いながら酔いがまわってきたのか、お姐さんにあわせて口づさんだりする。
 すると母が「お父様、随分年季がいっていますこと!」と厭味を言って父をからかう。
なにしろ当時は官官接待真っ盛りの頃。連日連夜料亭で宴会だった父はそこで小唄、端唄、どどいつ、新内、歌舞伎の声色、あてぶりなどをしこまれたらしい。
柳橋や新橋の芸者さんが黒塗りの乗用車にのって父を送ってくることなどざらだった時代だ。

 父は酔って「いっぱいやるかい?」などと言って母の目を盗んで私にお酌してくれたりした。
 父は私が何歳で何年生なのかまるで知らないほど、無関心、無頓着だったのだから、父が上機嫌で相手してくれるのが嬉しくて
「じゃあ、いっぱいだけ」などと大人顔負けのことを言って父を大笑いさせたりした。

 この掘りごたつでの勉強は勉強などと云うものではほとんどなかった。
 しかし、一番楽しかったのは、母が針仕事をしながら、「お母さんに国語の教科書を読んでちょうだい」と言う時だった。
 私は得意になって国語の教科書を朗読する。ほめ上手な母は、
 「百合ちゃんの朗読はいつ聴いてもうまいわね。今の詩の部分をもう一度ゆっくり詩の内容を頭に入れながら読んでくれない?」
 などと私に言う。
 私はほめられた嬉しさで調子に乗ってまた朗読する。楽しみながら母のほめ上手、教え上手にのっかってすっかり国語が好きになったのだった。
 母と私の二人っきりの「掘りごたつ勉強」は私の子供時代の「蜜月タイム」だった。
 この居間の柱にもらい物の短冊が鏡と一緒にかけられていた。
 その短冊は若山牧水の歌だった。

・しらたまの歯にしみとおる秋の夜の酒はしずかにのむべかりけり若山牧水

中学になって国語の時間に誰か知っている短歌をあげてみろという教師の問いに私はこの一首をあげた。先生は目を白黒させて「渋いものを知っているんだなあ」と言った。
他の生徒は格調高く百人一首をあげていたのだから,なんとも浮いていたものだ。

そんなおっちょこちょいの私にも、嫁入りする日が来た。この居間で家族みんなにお別れを言った日も柱にはまだ牧水の短冊が色あせてかかっていた。
その夜、父はきっと牧水の歌のように独りで静かに酒を呑んだのかもしれない。もう堀りごたつでお相伴をする小さな女の子はいない。