飛翔

日々の随想です

教科書を広げると

 
  天高く馬肥ゆる秋となった。
 読書の秋でもある。家じゅう本だらけとなり、もうこれ以上本を買わないようにしないといけない。
 図書館で本を借りてくることも多いけれど、蔵書として持っていたいのである。
 私の本はかわいそうなぐらいアンダーラインや書き込みでいっぱい。
 教科書もそうだった。ノートをきちんととるよりは教科書にびっちり書き込むほうが効率が良い。
 隣の席の子が教科書をわすれでもしようものなら大変である。
 私の教科書を一緒にみることになるのだけれど、びっちり書き込んであるのでどこに活字があるのか分からないほど。
 アンダーラインも赤やら青やらで引く。
 試験の間際は赤のアンダーラインだけ重点的にみればよい。
 そんな赤やら青やら書き込みがいっぱいの教科書には愛着がある。今でも教科書を取り出せば一発でどこが重点箇所かすぐ分かる。

 蔵書もかわいそうなぐらいのていたらくだ。だから大事な本は2冊そろえている。
 一冊は書き込みアンダーライン用。もう一冊は蔵書として本棚に鎮座させるため。
 アンダーラインや書き込みの本は必ず3回ぐらいは読み返すので4回目の時はどこに何が書いてあるか暗記してしまうほど要点が頭にこびりついている。それでもまた読み返すときは綺麗なほうでなくよれよれの方が好きで読む。

 よれよれの教科書を取り出すとその時のお天気とか気分とか、家族の様子まで思い出されるから不思議だ。自分の部屋でなく居間の掘りごたつでよく勉強していた。
 書き取りの宿題などは面倒で「たけかんむり」や「うかんむり」「にんべん」だけ百ぐらい先に書いてあとからつくりを書いたりしたのでそれをみていた母によく叱られたものだ。
 父がふざけて
 [「努力」と云う字は女のまたに力ありと書くんだぞ]
 などというと母が
 「まあ!お父さまったら、変なことばかり子どもに教えないで下さい!」と怒ったりした。
 この炬燵でマフラーをせっせと編んでいたことがあった。部屋には父と私しか居なかった。父はテレビを見ていた。席をたって戻ってきたらマフラーの編み目がふえていた。私は編み目を数えながら編んでいたのでおかしいなあと不思議になった。
 父の顔をみると知らん顔をしてテレビをみていた。
 夜ねながら考えてみてあれはきっと父がこっそり編んだに違いないと思って布団の中で笑い転げた。
 すました顔をしていても父の好奇心は抑えられずに編んでみたに違いない。

 あの掘りごたつでは随分「にんべん」や「たけかんむり」や「くさかんむり」が増産され、赤やら青のラインが引かれ、マフラーが編まれ、姉妹げんかの修羅場でもあった。
 教科書を広げるとそんな想い出が広がる。