飛翔

日々の随想です

出会いと別れ


ここのところ、ちょっとした嬉しいハプニングがあって笑顔が続く。
 先日は顔も知らない、あったこともない空間(アマチュア無線)の友人と我が家で初めての出会いがあった。
 十数年来の友人関係だけれど、
 「初めまして」
 と門を開けると会話が始まった。

 初対面なので、「ああ、こういう風貌の方なんだ」
 と、お互いが思ったようだが、
 そこは十年来の知己。すっかり打ち解けて、家族と共にお茶を飲み、なごやかなひと時を過ごすことができた。

 人間関係は様々だけれど、こうして十数年、一度もあったことがない者同士でも、信頼関係だけでつながっていることが嬉しい。
顔が見えない世界はとかくトラブルがあるものだけれど、十数年という歳月は信頼を裏切らない。

 そして同じことが過日あった。
 夜突然の電話。
 このブログと以前開設していたHPの頃からの付き合いのネットの友人だ。
 電話で声を聞くのは初めてだった。
 でも、「わ〜。どうしてる?元気?」
 とタメ口トークが始まった。
 近況に心配しての電話だった。
 子供の進学相談をしていた頃が懐かしく、その子ももう結婚。
 歳月を感じあった。

 旅での出会いも、一過性のものが多いが、26年前、ドイツへ旅した時、ビアホールで知り合ったドイツ人女性と
 はもう26年もの長い間文通をしている。袖すりあうも他生の縁。
 英国に留学していた頃下宿していた牧師様とはフェイスブックでまたつながっている。
 出会いと別れ。かの井伏鱒二は、勧酒(于武陵)をこのように訳した。
 
    この杯を受けてくれ
    どうぞなみなみ注がしておくれ
    花に嵐のたとえもあるぞ
    さよならだけが人生だ

その一方、寺山修司

 【幸福が遠すぎたら】
 
「偶然のない人生もあります。。。。。とドストエフスキーは言ったそうです。
        でも、それは人生にこだわりすぎるからじゃありませんか?


  さよならだけが
  人生ならば
    また来る春は何だろう
    はるかなはるかな地の果てに
    咲いてる野の百合何だろう

  さよならだけが
  人生ならば
    めぐりあう日は何だろう
    やさしいやさしい夕焼けと
    ふたりの愛は何だろう

  さよならだけが
  人生ならば
    建てたわが家は何だろう
    さみしいさみしい平原に
    ともす灯りは何だろう

  さよならだけが
  人生ならば
  人生なんか
  いりません

   (寺山修司(1935-1983)

と書いている。
 両者の「別離」に対する人生観が面白い。今の私は寺山派かもしれない。