華美でなく地味でなく、上品に上質のものをさりげなく着こなす。
最近心がけていることです。
この年になると、今まで見えていなかったことが見えるようになったと思う。
人のなりふりの真意や、言葉の奥にあるものなど。
最近になって習い事を始めて、教師というものや、登壇して人を導く人の言葉や態度に、かつて教える立場にあった自分の姿をふり返ることが多い。
言葉に私情が入る。それを直接受け止める立場の人と、客観的な立場にある人とでは受け止め方が異なる。
公平感が崩れるのはそんな時だ。慣れ親しんで双方が理解し合っているならば、私情は「情あるもの」として多くに受け入れられるが、異端者にとっては、「差別感」を感じるものだ。
その差別感をさみしく受け止めながら、以前なら怒りとする感情だったものを、ある種の達観で自分自身をコントロールしていることに気づく。
私も老いたのか、大人になったのか、冷静になったのか・・。
「怒りを恥」としてコントロールしているのだ。「年甲斐もなくとか、ま、見逃すこととしよう」などとセーブする。
上述したように、おしゃれも、若い時は自己主張が全面に出るファッションを好んだ。
今は、自己主張を恥としている。別の意味の「隠れ自己主張」が存在する。
つまり、若さや美しさを強調することができない分を、長年培(つちか)ってきたセンスで凌駕しようとしている。
地味は滋味に通じ、上質なエレガンスが若さの美を駆逐するのだ。
年を重ねるのも悪くない。そろそろ自然体でいこう。