飛翔

日々の随想です

登校拒否と「正訳にたどりつけない翻訳家」


テレビドラマをを見ていたら、夫が珍しく「この女の子、いいね!」と言い出した。

 ドラマをみることはめったにないうえ、感想を言うこともめったにないのでびっくり!
 「いいね」ってどういう意味?と尋ねると、
 「よごれていない感じ。まっすぐでいい」と言った。
 私もドラマの主人公役の女の子のまっすぐさが気にいっていたので同感!
 
 ドラマの内容は時代の問題点(登校拒否、父親の思わぬ失業など)身の回りにいくらでもあることで、とってつけたような架空の話でないところも良い。

 登校拒否の問題はさまざまな原因があるのだろうけれど、概して純粋でまっすぐな子が友だちの裏切りや、人間不信、自分への深い内省、社会への矛盾に突き当たって葛藤することが原因だったりすることが多いようだ。
 人におもねたり、すりよったり、風見鶏になることへの強い反発。
 まっすぐに生きていくことの難しさ、人生の矛盾に初めてぶつかった若者の自分との葛藤。
 そんなものが立ち往生させるのだろう。

 人はそんなことを何とか辻つまをあわせて、折り合っていくすべをいつのまにか身につけてしまう。
 そうしなければ生きていけないから!
 そんなずるさを許せない若さ。まっすぐな憤り。

 「不登校」について十羽ひとからげに考えてよいものなのだろうか?と考えさせられる。
 このドラマの中では抜け殻のようになってしまったこの主人公は母親と共に旅館へ住み込み、自分の行く末を見つめることとなる。

 そんな役柄を実年齢に近い俳優が好演。
 純な心が演技とは思えぬほどにじみ出ていて心を打つ。

 いろいろな高校生が巷にはあふれている。
 お化粧して分不相応なブランドバッグを持って歩いている高校生。
 部活に汗を流している高校生。
 受験勉強にはげむ子。

 アメリカ人の詩人、ジェイムズ・メリルが言うように人生は、人間は「正訳」にたどり着かない「迷子の翻訳家」なのかもしれない。

 ドラの女の子が煩悶するように、簡単に人生に折り合いをつけてすり合わせ、辻つまを合わせなくても良いのではなかろうか。
 若いときほど、煩悶し、矛盾と闘って苦しんで、茨(いばら)の道を歩もうとすることをこばむべきでないのではなかろうか。

 しかし、そう理想どおりにはいかないのが人生。
 わかっていても人の子の親になると、子供には茨の道をあゆませたくないもの。
 子供だった自分が親にさからったように、親が子供の自分に教え諭したように、輪廻(りんね)はまわってくる。

 人間は「正訳」にたどり着かない「迷子の翻訳家」なのかもしれない。

 社会の矛盾の中で日々闘っている家人がふともらした言葉「よごれていない感じ。まっすぐでいい」という感想はそんな純でいる「若さ」への憧憬であり、賞賛であったのではなかろうか。