飛翔

日々の随想です

蝉しぐれ


朝、ガレージに向かおうとした夫の前を蝉が黒いかたまりのようになって飛んだ。夫がとっさに手でつかもうとした。
 私はつかまえないで!」とさけんだ。短い命の蝉だもの。
 夫は
 「昔はこの蝉が欲しくてしょうがなかったんだよなぁ」
 と遠い目をして言った。
 「つかまえてどうするの?」
 と尋ねると、
 「男の子にとって蝉をとること自体が楽しいんだよ。たもで狙いを定めてぱっと木の幹にかぶせるんだ。たもも自分で作るんだよ」
 と言った。
 夫はたもの材料となる竹をとりに竹やぶに入るところから説明しだした。適当な長さの竹をとると家に帰り、今度はたもの先につける布の作業だ。三角形のはぎれを縫い、円くした針金で口をつくりそこに布を通す。たものできあがりだ。
 「それでね、たもの口は小さく作るんだよ。口が大きいと細い幹にかぶせたとき隙間から蝉が逃げちゃうからね」
 と楽しそうに言った。
 車の中から楽しそうに解説するその顔は少年のようだった。
 「秋になるととんぼの「友釣り」をするんだよ。糸におとりのトンボをしばって空に向けてぐるぐる飛ばすんだ。そうすると面白いことに他のトンボが飛んでくる。それをつかまえるんだよ。それでね、捕まえたトンボを十本の指の間に挟んで仲間に自慢するんだ!」
 と十本の指にトンボを挟んだような格好をして空に向けた。
 得意げな少年の顔になった夫は一瞬にして時空を飛んだ。
 野山を駆け巡って過ごした少年時代の夫の話は都会育ちの私には別世界の話を聞くようだった。
 ほかにも、鳥をとったり、どじょうをとって、それをうなぎの仕掛けに入れてうなぎつりをした話や、池の周りのさまざまな食虫植物や、昆虫たちの話を聞くのは楽しい。
 自然とのかかわりが濃い少年時代を過ごした夫は野山を歩くとすぐに少年の目になる。
 川や海へ入ると岩をどけてそこにひそむ生き物たちを探す。
 遠泳で鍛えた体はどこまでも泳いでいけそうだ。
 きっと無人島に流れ着いても夫だけは百年でも生き残れそうだ。
 出勤前の車の中で蝉の話から少年時代の野山を駆け巡った冒険談まで、楽しそうな数分が流れていった。
 「じゃあ、行ってくるね。今日も暑くなりそうだね」 
 と言ってエンジンをとどろかせて出かけていった。
 庭のケヤキからはせみが時雨となって鳴いている。