飛翔

日々の随想です

シニアの卒業式


 時は春。卒業式の時期となった。
 塾を経営し、教師も兼ねていた頃は、この時期は「別れ」のときとなる。

 今日は我が家で迎えた「大人の卒業式」のことを 思い出した。
 その出来事を書いてみたい。


 遠くに牛の鳴き声が聞こえる、ひなびた地域の、ある夜の出来事である。
 時は午後八時。
小高い丘の八合目に建つ一軒の住宅に軽トラックが横付けされた。車体には「○○ラーメン」と書かれてある。出てきたのは年の頃は四十代とおぼしき男性。白い長靴姿である。どうやらラーメン屋の親父のようだ。次にやってきたのはこれまた軽トラック。出てきたのは三十代の男性。グレーの作業着を着て旋盤工のようだ。次は白の乗用車。現れたのは六十代半ばの女性。ショートカットにパンツルックが軽快。次に現れたのは軽自動車。中からは中年女性がでてきた。手に持っている茶封筒には「○○植木店」と印刷されている。植木屋のおかみさんだった。
 この四人は玄関を入るとよく磨かれた廊下を通って突き当たりの部屋へ吸い込まれるように入っていった。突き当りの部屋はこの家の食堂だった。大きさは十畳ほどの横長。大きな楕円形のがんじょうそうなテーブルに全員腰掛けると、一人の女性が入ってきた。まっ赤なワンピースを着て元気そうな人だ。笑顔をふりまきながらこの人が口を開いた。
「グッドイヴニング、エヴリワン」
 すると座っていた四人がすずめの様に口をそろえて、
「グッドイヴニング、ミズ、ユリコ」
 と答えるではないか!
 そう。ここは「英語教室」なのである。人呼んで「ゆりこ食堂 英語教室」。赤い服のマダムの名は「ゆりこ」。何を隠そう私のことである。

 さて、話を一から詳しく語ることにしよう。
 わが家で、英語を一から教えてくれと云う依頼が飛び込んだ。子供でなく大人だというので断った。断っても、断っても教えてくれと云う。当時私は塾で英語教師をしていた。依頼主は生徒の親だった。
 父親を早くに亡くしたその人はラーメンの屋台を引いて家族の生活を支えてきたのである。苦節十八年。ついに店をもったという経歴の持ち主だった。
 結婚し子供が中学生になったときのこと。
 ふと子どもの英語の教科書を開いてみた。するとほとんど読めないことに愕然となった。どうしても勉強したくなったという。その熱意に負けてアルファベットから教えることになった。数ヵ月後、どこで聞いてきたのか、「私も、俺も」と一から勉強したいという大人が増えてきた。旋盤工、植木屋のおかみさん、還暦を過ぎたパート店員であった。
 わが家の食堂が教室になった。「ゆりこ食堂英語教室」の誕生である。
 毎回出す宿題は一週間にあった出来事を書いてくることだった。忙しい四人なのでやってこない者もいたけれど、ほとんどが数行でも何か書いてきた。六十歳過ぎのパート店員の女性はおぼえる端から忘れていくので、自信がなさそうだ。
 すると周りの三人が覚え方を伝授し始めた。休み時間に生徒同士が先生になってこの人に教える。教え始めると自分の復習になるのか、めきめき力がつくのだった。中学三年の教科書を終えた頃には、全員一週間の出来事を英語でスピーチするまでになった。
 ある日ラーメン屋の親父の店に外国人が来た。カウンターに座った外国人がこのスープはどんな材料が入っているのだろうか?具の中の「なると」をつまみあげて、これは何だろうと言い合っている。そこで親父はラーメンを作りながら厨房の中から英語で答えた。びっくりしたのは外国人でなく店の中にいた全ての客だった。英語教室で鍛えた英語力がいかんなく発揮できた瞬間だった。
 さて、こうして過ぎた三年間。「ゆりこ食堂 英語教室」は無事その使命を終え最後の授業となった。最後を飾る言葉は「学ぶのに遅すぎることなし」。
 成人になっても、還暦を過ぎても、学ぶ喜びにきらきらと瞳を輝かせてきたみんなの姿が、そこに凝縮している。
 卒業後も、ことあるごとに、みんなは同窓会と称しては我が家にやってくる。いつかみんなで「修学旅行」に行こうと相談しているらしい。 生徒のほうが人生のベテランで、先生のほうがおぼつかないひよこだった「ゆりこ食堂 英語教室」。さて、その「ご一行様」の修学旅行はいったい、いつになるのやら?