飛翔

日々の随想です

茶の湯(おもてなし)と一期一会


茶道を知らない人や興味がない人は「お茶」というものはお茶をたてて、客は飲むだけのものと思う人が多い。
 しかし、お茶はおてまえをするだけでなく、いいろいろなことをふくんでいて面白い。
 その一つに「炭手前」(すみでまえ)がある。

これは釜の湯をたぎらせるためには必要かくべからざるものだ。炉の中に炭をくべて火をおこすのである。その炭のおき方が「景色がある」ように、つまり、眺めて美しいようにするのが大切なのだ。ただやたらに炭をくべて火をおこせばよいというのではない。そこが日本の美意識なのである。炉の中に「景色」があるように美しく炭を置く。それを客も一緒に愛でるのだ。美しく置かれた炭と言うのは火がおこりやすいという合理性にも富んでいる。その際、火から少しはなれたところに香をいれる。茶室にかぐわしいお香のにおいがたちこめて空気がきよめられるのだ。
 
 
 炉の中の「景色」を美しくし、茶室の空気を清めて香をたき、お手前の準備が整った頃、ちょうど良い具合に釜の湯が煮えるというわけだ。その釜の湯が「しゅんしゅん」と煮える音がちょうど浜辺にある松に風が吹きぬける音のようなので、釜の湯が煮える音を「松風を聴く」という。

 なんとも雅(みやび)やかなものである。武士も町人も、現代の老いも若きも同じ席に座り、一服の茶を喫する。亭主(もてなす側の人)のもてなしの心を客は楽しむ。憂き世のせちがらさを忘れ、一服の茶に今を味わうのだ。この「今」は二度と来ない一刹那(せつな)である。一期一会である。

 わたしたちは、ただわけもなく忙しく過ぎていくが、一瞬の大切さ、ありがたさを見逃しがちだ。
 「今」はもう二度とやってこない。
 茶の師匠はこういう。
 「忙しい」という言葉は茶席では言わないように。なぜなら「忙しい」という字は心を「亡くす」と書くからだ。
 心を亡くしてはおしまいである。