飛翔

日々の随想です

指導者と人間性

今、いろいろな学びの場に参加している。
 するとその数だけ指導者がいる。共通する事は、知識や技術を教えるという点である。
 違う点は指導者、つまり先生と呼ばれる人の人柄や人間性、その人物からかもされる味、人間味と呼ばれるものである。
 子供の頃にさかのぼるなら、学校の先生もそれぞれ違う味があった。
 高校の数学教師は、教室へ入ってくるなり黒板に数式を並べて解説していった。授業は面白みに欠けていたが、その教師のあまりにも激しい数学への情熱に生徒全員が打たれてしまうのであった。一人の人間がこんなにも精魂傾ける数学というものの魅力は何だろうかと思いはじめ、そのうちいつのまにか、数学の魅力にはまっていくのだった。
 前述した指導者たちについていうならば、知識や技術は教科書を読めば理解できる部分が多い。生徒の習熟度が高くなるのは、教え方がうまい教師が多い。また教師の人間的魅力に惹かれて学びへと入っていく場合もある。生涯を通じて教師への思い出をもつのは、人間味のある教師に習った生徒だろう。
 こんな教師もいる。
 教師のお面をかぶった人である。能面のように感情をださず、真理だけを教えようとする人。
 こういう人物には心の底をさらけだして接することはできない。自己開示など到底できない関係となる。人間対人間として相対することができない人である。ただ、知識を受け取るだけの関係となる。
 つまり相手はその教師でなくてもよい、ロボットでもよいわけである。
 長年教師をしてきて、自分が果たして良い教師だったかはわからない。ただ生徒へ伝えたいと思う情熱だけは失せることはなかった。でも生徒を悲しませることもあった。その生徒のことは生涯忘れることができないでいる。
 人を導くということは大変なことである。指導技術を磨くことも大切だけれど、懐の深さと広さ、つまり人間性がものをいう。
 若くて未熟な指導者でも、その人間の真の美しさ、清廉さ、真摯な姿勢、情熱が、未熟さを補いさらに上回って生徒に伝わることもある。
 職業のお面をかぶったロボットからは何も伝わらない。