飛翔

日々の随想です

拝啓、お母さん


「ビンセント・ヴァン・ゴッホ」と言う名まえをご存知だろうかか?そう炎の画家ゴッホのことだ。
私のあだ名は「ビンセント・キッテ・マリア」
ヨーロッパ中に散らばっている留学時代の友人を訪ねる旅をしていた時期があった。毎日旅先から絵葉書や手紙を家族に、せっせとだした。ライン川の船着場で舟を待っている間もリュックを下敷きにせっせと手紙を書き、絵葉書を書いた。夜汽車の中でも手紙を書いた。
絵葉書や手紙には切手が必要だ。便箋も必要。ヨーロッパ中の郵便局で切手を買い、便箋をかって投函した。それでいつも「便箋、便箋、切手、切手」と探し回っていたのであだながゴッホになぞられて「便箋と(ヴィンセント)・切手(キッテ)・マリア」とついてしまったわけだ。
 行く先々の感動や景色などを即、伝えたくって絵葉書や便箋に書き綴った。列車に揺られながらの字はがたがたとそのまま崩れていて臨場感がでていた。表は美しい外国の絵葉書でも、裏の字は乱雑そのままだった。
 国内にいても旅先からよく絵葉書を私は出す。子供の頃も修学旅行や夏合宿先から両親に絵葉書を出した。結婚しても外国から夫に絵葉書をだしていた。

 先日夫の夏物と冬物の入れ替えをしていたとき、押入れの奥のほうから箱が出てきた。あけてみるとそこには私が夫に出した外国からの絵葉書や手紙が入っていた。
 あて先は夫と愛犬宛であることに思わず笑みがこぼれた。自分で出しておきながら笑うのもへんだが、そんな絵葉書をだしたことなどすっかり忘れていたから、新鮮な気持ちで読んだ。
 絵葉書の末尾に、
 「帰国したら少しはいい奥さんになるわね」
 などと書いてあって思わず赤面してしまった。擦り切れたシャツや靴下と一緒にこの手紙の山も捨てようかと思ったが、箱に入れてしまっておいた夫の気持ちを考えると勝手な真似はできない。
 外国の風景が広がる絵葉書を見ながら、それを書いたときの自分の心の状況までありありと思い出して懐かしくもあり、普段は悪ぶってばかりいる私なのに、絵葉書には正直な気持ちがそのまま出ていて、感慨深かった。
 夫がこの絵葉書を箱にしまっておいた気持ちが伝わって、しんみりとした。
 箱にしまわれた私の「心」をそのままそっと押入れにもどしておいた。

 箱と言えば、私にはもう一つ大事な箱がある。塾の教師をしていた時、生徒からもらった手紙を入れたものだ。修学旅行先から多くの生徒が絵葉書を送ってくれた。
 手紙や葉書をもらう喜びは何にたとえたらよいだろう?それは手書きのよさにあるといえるだろう。字の上手下手でなく、その人が書いた字からは、ほのぼのとした体温が伝わってくる。
 「拝啓、先生。東京ってスゲー!」
 と、はがき一面にはみ出しそうに大きく書いた子は名前を書き忘れていた。字から誰が書いたか推測できた。
 修学旅行から戻ってみんなで旅の思い出話にしばし沸き返った。そのとき、ある子が突然
 「先生!A子ちゃんったらすごいんだよ!」
 と言い出した。
「すごいって、どうしたの?」と聞くと
「A子ちゃんったら、仏壇のおじいちゃんにも絵葉書出したんだよ!」
と、言ったので皆爆笑した。
 私は感激して目がうるうるしてしまった。その子にとって仏壇に入ってしまったおじいちゃんは今でも家族の一員なのだ。だから家族に出すように仏壇のおじいちゃんにも絵葉書をだしたのだ。
 手紙をだしたり、絵葉書をだしたりするとはそういうことなのだろう。
 小さな心のメッセージ。それが手紙だ。遠く離れた人に、あるいは誰かに今の自分の心を伝えたいと筆をとる。はがき一面に
「スゲー」と書いた子供の心の内が文字になって見えてくる。「おじいちゃん」と呼びかける絵葉書からはおじいちゃんの存在が生き生きとよみがえってくる。
「心」は目に見えない。目に見えないものでもそれは確かにある。「言葉」は目には見えない心を通るとき「言葉」以上の何かになると思った。

 私も仏壇の中で微笑んでいる母に手紙をだしたくなった。
  拝啓、天国のお母さん、
  お元気ですか?天国の様子をお知らせください
  返事まってます。
  ろこ