飛翔

日々の随想です

路地を行く


 運動不足解消と気分転換をかねて散歩を楽しんでいる。
 昨日は片道一時間ほど離れた本屋まで歩いていくことにした。
 いつもは車で通ればまっすぐな道を20分で着ける。
 散歩をするのに、広い道を歩くことほどつまらないものはない。
 路地をめぐって歩くことにした。
 散歩の魅力は何だろうか?
 それは車に乗っていては見えないもの、味わえないもの、感じられないものを味わえることだろう。
 自分の歩幅で自由気ままに歩けることはなんともいえない爽快感がある。 
 車では見過ごしてしまうもの。
それは道端に咲いている花や、すれ違いざまにかわす挨拶、ほほえみだったりする。
 大きな道でなく路地を歩く楽しみは格別なものがある。
 夕暮れ時になると家々からただよう夕餉(ゆうげ)のにおいや音。
 あ、ここの家は今日はカレーだなとか、お醤油のこげるような香ばしいにおいに,
 今夜のおかずは何だろう?と想像したりする。

 また昼間は家々の軒先に丹精した花を愛でる楽しみがある。
 狭い空間にささやかな緑があり花がある様は心がなごむ。
 水遣りしている人と花を囲んでつかのまの花談義をかわすのも人情味があってよい。

 路地には近代化されない昔の風情が残っている。
 おや?こんなところに?とおもうような場所に常夜灯がともっている。
 お地蔵様が祀ってあり、新鮮なお花が供えてあるのは心がぬくもる。
 赤い頭巾をかぶっている。
 近くの人たちがよくお世話をしているのだろう。
 外国では細い裏道の突き当りにはマリア像が祀られている。
 花が供えられているのを見るとなぜかほっと心がくつろぐ。
 旅人にすぎない私にも、マリア様が見守ってくださっているようで思わず手をあわせる。

 昨日歩いた細い路地の辻、辻にもお地蔵様や道祖神が祀(まつ)られていた。
 崩れかけたような家の軒先に丹精こめた小さな鉢植えや、花が咲いているのを見ると、はっと胸を打たれる。

 がたぴしと音を立てて木戸を開ける音に振り返ると、この家の主が出てくるのがみえた。
 煮しめたような手ぬぐいが物干しざおにかけられている。
 さおの周りには巻きつくように花が咲いている。
 手にしたジョウロで、この家の主である老婆が花に水をやりだした。

 このあたりは、昔はハタヤ(紡績工場)が多かった土地だ。
 外まで聞こえる機(はた)の音は休まる暇はなかった。
 遠く九州や信州の山奥から女工さんたちが機織りに住み込みで働いていた。
 今はすっかりさびれたこの地にはそうした紡績工場がくずれかけた土塀ごしに往時の面影を残しいる。
 この老婆もそんな女工さんの一人だったのだろうか?

 辻に祀(まつ)られたお地蔵さんや、道祖神をお世話するのもこの路地に住む人たちだ。
 緑や花をたやすことなく育て、地域を守ってくれるお地蔵さんや道祖神に感謝をささげるここの人たちの心根の優しさが路地には満ちていた。

 路地をそぞろ歩きながら軒をかすめていく風の音や、醤油のこげるにおいにまじって
「ご飯ですよ〜。手を洗っていらっしゃい」という声を聞く。

 暮れ方の路地には露を含んでしっとりとぬれた植木鉢が常夜灯にともされて光っている。
 路地には人の体温と生活音が満ちていて温かい。