飛翔

日々の随想です

木山捷平に於ける詩と散文の違い

詩と散文の違い、その持ち味の相違について詩人荒川洋治は様々な詩、散文の事例をあげ読み解き、読者と共に味わう趣を呈してきた。
ではここで論を多くするよりも、その事例を読み、「詩」と「散文」についての味わい比べをしてみようと思う。(『詩とことば』荒川洋治著 岩波書店から)
木山捷平の作品:講談社文芸文庫木山捷平全詩集』から昭和三十一年の作品「五十年」:
    五十年

濡縁におき忘れた下駄に雨がふつてゐるやうな
どうせ濡れだしたものならもつと濡らしておいてやれと言ふやうな
そんな具合にして僕の五十年も暮れようとしてゐた。

人生「五十年」をこえる人の感慨である。いい詩である。
小説家でもある木山捷平はこの詩を書いた三年あとの、昭和三十四年、「下駄にふる雨」という小説を書き、そこで詩「五十年」とほぼ同じ情景を描いた。 (講談社文芸文庫『下駄にふる雨・月桂樹・赤い靴下』)から引用:
        下駄にふる雨
正月に買ったばかりの自分の下駄が、雨にぬれているのをみていると、私は鼻緒がびしょ濡れになった下駄をはいた時の気味悪さが五感によみがえって、自分の身がすくみ込むような気持ちを覚えた。かと言って、私は下駄は一足しかもたないし、今更ずぶ濡れになった下駄をあわてて取り込んでみたところで、天気が晴れるまでは乾く筈はないのである。私は何だかその下駄が自分の一生を象徴しているのではないかというような気がして、ぽいと立ちあがって、台所に入っていくと、こともあろうに、私の細君は時間はずれのお茶漬けを食っているのを、私は見つけた。

 「詩「五十年」のほうが簡潔に、思いを伝えているように思う。ことばもきびしさがあり、いまこう思った、こう書いたという、気持ちの熱さもある。一方の「下駄にふる雨」の文章は詩「五十年」のあとに書かれたためか、「五十年」に比べ、張りがない。でも多くの人は「下駄にふる雨」に親しみを感じるはず。なぜなら、詩ではないから。」とは荒川氏の言葉である。詩が沈滞した現状は人間が弱くなり、忍耐がなくなり、努力しなくても近づける簡単なことばに引き寄せられ、思考力や想像力をようする詩のことばは衰えてしまったと著者は憂う。
詩人にもその責はあるとし、警鐘をならすことを忘れない。
詩は何をするものなのだろうか。詩の根本が問われている今。だからこそ本当の詩の歴史は今はじまるのであろう。