我が家はいたって普通の家庭である。
隣近所、友人もごく普通の人たちばかり。
変わったことなど起こりようがないと思うほどだ。
しかし、長い人生の一こまをとってみると、夫婦の会話に微妙なものが生じていたかもしれないのである。
お互いにそのときは気がつかず過ぎてゆく。
しかし時がたって「あ!あの時、あの人が言った言葉ってそういうことだったのね」などと気づくこともある。
また、言葉には出さないが、胸のうちでつぶやいていた事柄などもある。
そんなささやかなことが人生の大きな伏線になっていることを誰も気づかずに過ぎてゆくのだ。
それが平凡の中の明かりであったり、闇であったりする。
テレビドラマを見ていると、茶の間で家族が食事している風景が多い。
あるいは縄のれんをくぐって入った飲み屋のカウンターでの会話が多い。
つまり日常の風景の中に必ずドラマがあるということだろう。
本書はそんなどこにでもある夫婦が交わす会話や、飲み屋での男女、洋装店のマダムと客などの会話の中に潜むドラマを絶妙に切り取ってみせてくれた短編17作である。
日常にひそむドラマをテレビで見てるような錯覚に陥る。
なぜかなあと思ったら、作者神吉拓郎は放送作家のキャリアがある人だったことを知って、なるほどと納得がいった。
しかし、この短編ではテレビなどでは描ききれない微妙な人情の機微というものを、読者自身がそれぞれの心のスクリーンに描くことができる作品である。つまり読書の特権でもある。
この作品で神吉拓郎は第九十回(1984年)直木賞を受賞した。
実は何を隠そう、神吉拓郎の作品を読んだのは本書がはじめてである。
軽妙なタッチの作品を文章で書くというのは至難のわざである。
名人芸の短編であった。