飛翔

日々の随想です

日常と幸せ


 勉強会で誰かが「日常のありふれたものには感動がないのか?」と言い出した。
 私は昨日読んだ神吉拓郎の短編集17作がとっさに思い浮かんだ。
 彼は「日常のありふれたもの」をさりげなく切り取って直木賞をとった。
庄野潤三の作品もさりげない中にいぶし銀のような人情の機微や自然とのかかわりを描いている。

 日常といえば、子どものころ、母が洗濯物をたたみながらこう言ったのを覚えている:
 「お母さんはね、こうしてお日様に洗濯物が干されてぱりっとなったものをたたむとき幸せを感じるのよ」と言ったことがあった。
 「えー!お母さんはそんなことに幸せを感じるの?」と目を丸くしたものだ。
 冬の寒い夜ぶるぶる震えながらお布団にもぐりこむ。
 日中お日様に干されてふくふく、ぬくぬく、ぽかぽかになったお布団が体中を包むとき、ほーっとしてその暖かさに思わず縮こんだ体を伸ばす。
 そして布団を干してくれたものへの感謝とぬくみに幸せを感じたりする。

 太陽が燦燦とした中、家中の布団が干してある光景は壮観であり、主婦として満ち足りた瞬間でもある。
 そう。「幸せ」というのは何もぎょうぎょうしいものでなく、こうして日常の中でふと感じるなにげないものであろう。
 作り物はどこかうそ臭いものを含む。だから虚構なのである。
 現実の「幸せ」は率直に降りおりてきた感覚から生まれてくるものだ。
 
 河野裕子の歌にこういうのがある:
・しっかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ
河野裕子)(『紅』(平3)所収)

 まさに母の想いと重なる。堂々とした「仕合せ」がここにはある。日常のささやかではあるが、どっかりと地に足をつけた「幸せ」である。
 これは時代が移り変わろうと変わらぬ日常の中の「幸せ」である。
 
 短歌ってすごいなあと思う瞬間である。
 ずばり、わずか31文字の中にみごとに「主婦が母が女が」思う「日常の」「幸せ」を歌い上げてしまった。
 なんのてらいも、技巧の匂いもなく、ずばりと日常に光をあてた名歌である。
 
 今日の勉強会で誰かが「日常のありふれたものには感動がないのか?」の問いへの答えがあった