飛翔

日々の随想です

本を読むということ

 古書展へ行ったら父親が書いた本が古本として売られていてびっくり!もっとも父個人の名前でなく、勤務先の出版物として編纂された全集だった。日本全国を回って神社仏閣、秘仏などを見て歩き、日本を海外に紹介する為の書だった。なんだか嬉しいようなさみしいような気持ち。安かった!
 月日をかけて書いたものに値段をつけて出されること。そんなことにこんなに不本意な感じを覚えるのははじめてだった。おまけにすでに古書となっていたことも。当たり前と言えばあたりまえなのに・・
 はたして誰の手に渡るのだろうか?誰かが買って大事に読んでくれたらあの年月は生きてくるというもの。
 書物は読まれるためにあるのだと今更ながら感じるのだった。専門書のようなものなので何かの資料として読まれるのであろう。日々手にとって愛読する類のものではないのできっとほこりをかぶって本棚の片隅におかれる運命の本なのだろう。そう。わが家にある同じ本のように。
 ああやって日焼けしたように変色した父の本を目の当たりにすると、書いた者の渾身を思う。本はやはり愛して読むとその書物に命が吹き込まれる。
 書評をお気楽にしたためる今日この頃の自分を顧みると、愛してやまない本というものがあっただろうかと疑問に思う。
 父の書斎の本棚から本を選ぶとき、なぜか父の心を読むような気持ちになったものだ。一冊一冊を父がどういう気持ちでその本を選んで、どう読んだのだろうかと探った。
 古びた本がここに一冊ある。「経済学の基礎理論」
 本の裏に父が自分で彫って作った蔵書印がおしてあった。絵心のあった父は自分独自の蔵書印を彫って作ったのだった。何と愛しい本なのだろう。
 こうして自分が愛して読んだ本に落蔵書印をおして自分の書の証としたのだろう。
 とぼしい小遣いの中からひねりだしたお金で買った本はひとしおのものがあって愛読してやまなかったにちがいない。父の時代の人間は本をこのように愛して読んだのだ。
 本を読む姿勢にあらためて衿をただしたくなった。私の書庫の守り神はこの古びた父の書だ。
 人間の体は滅びても、魂は様々な形となってそこここにあるのだ。
 それを見つけるのは故人への哀惜の情がさせるのだろう。
 古書にもの想う時をすごした。