幸福感というのは人、さまざまであろう。
そもそも「幸福」ということ自体目には見えない漠としたものだ。
しかし、「幸福」に感じる時とは?と質問されたら、いろいろあげられる。
私の場合は子供の頃の家庭の風景が先ずは思い出される。
母の優しい笑顔、一家団欒の食卓のゆげ、ぽかぽかに干された布団のぬくもり、青空の下ひるがえる洗濯物、
「ただいま〜ぁ」と帰宅したとき迎えてくれる母の笑顔と真っ白な割烹着など。
大富豪との贅沢な生活、プールつきの大豪邸に住んで・・・などは浮かばない。
とっさに思い浮かぶのは、みんなささやかな家庭での一こまである。
2010年 8月12日夜、歌人の河野裕子さんがお亡くなりになった。
『文藝春秋』十月号に「これから母はいない」と題して娘さんで歌人の永田紅さんの母を悼む文が載っている。
この六月にスイカ一切れを食べただけで吐き、食事をとれなくなって緊急入院となった。
(略)そのほんの何日か前には、着物を着て小野市詩歌文学賞の授賞式に出かけて挨拶したり、新聞の対談をこなしたりしていたのに。
自宅での在宅看護を受けることになり、七夕の日に母は家に帰ってきた。
(略)母は、根源的な「お母さん」「おふくろ」の豊かさをもつ人だったと改めて思う。
理屈でなく、大きな袋に、夫も子どもも飼い猫も野良猫も一緒くたに放り込んで丸ごと可愛がる。
とくに私の父は、早くに母親に死に別れてお母さんの記憶のない人なのだが、母がそんな寂しさを十分に包んできたのだろう。
家族にご飯を作って食べさせることを大事にしていて、自分がいなくなったあと、「何をたべるんやろう」と父を可哀想がって泣いた。
と、ある。
河野裕子さんの歌:
しっかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ(河野裕子)(『紅』(平3)所収)
この歌が持つ重みをいまさらながら深く感じるのである。
この歌がでたときは日常を詠うことへの批判があったようだが、日常こそがなによりも大切なことなのではなかろうか。
ましてや、娘さんの永田紅さんの文にもあるように、この歌には河野裕子さんの深い思いがこめられていることが分かる。
わずか31文字には作者の万感の思いがこめられていることを思う。
子どものころ、母が洗濯物をたたみながらこう言ったのを覚えている:
「お母さんはね、こうしてお日様に洗濯物が干されてぱりっとなったものをたたむとき幸せを感じるのよ」と言ったことがあった。
「えー!お母さんはそんなことに幸せを感じるの?」と目を丸くしたものだ。
冬の寒い夜ぶるぶる震えながらお布団にもぐりこむ。
日中お日様に干されてふくふく、ぬくぬく、ぽかぽかになったお布団が体中を包むとき、ほーっとしてその暖かさに思わず縮こんだ体を伸ばす。
そして布団を干してくれたものへの感謝とぬくみに幸せを感じたりする。
太陽が燦燦とした中、家中の布団が干してある光景は壮観であり、主婦として満ち足りた瞬間でもある。
そう。「幸せ」というのは何もぎょうぎょうしいものでなく、こうして日常の中でふと感じるなにげないものであろう。
作り物はどこかうそ臭いものを含む。だから虚構なのである。
現実の「幸せ」は率直にふりおりてきた感覚から生まれてくるものだ。
私の父も家庭のぬくもりを知らないで育った人だった。
そんな父を母は優しく包み込むように愛した。
新婚時代の父の日記を読むと「世の中にこんなにやさしい人がいるとは思わなかった」と記されていた。
母の洗濯物を畳むときに言った幸福感と河野裕子さんの歌が重なって心に染みた。
人にはそれぞれの幸福感がある。
それぞれの女たちは物言わずに家族の為に心をくだき、立ち働いてきた日常を想う。
声に出さずに万感の想いを胸に秘めた女たちの声を河野裕子は見事に代弁したのである。
永田紅さんは「文藝春秋」の中でこんなことを言っている。
ティシュペーパーの箱や、薬袋にも書き付けた歌が残っている。
亡くなるその日まで歌を作っていた。
亡くなる前、立派なやさしいお別れをしてくれた。それぞれに、お守りになるような言葉を残してくれた。
ベッドに横になったままで、父も兄も私も、ひとりひとりの頭を抱いて撫でてくれた。
紅さんの胸に迫る文に,思わず涙が流れた。
最期の最後まで歌人であった河野裕子さんに深い哀悼の気持ちを捧げたいと思います。
(抜粋引用は『文藝春秋』十月号より)
たっぷりと想いを抱きて詠い逝く深き器の河野裕子よ (ふばこ)