飛翔

日々の随想です

「料理本に見る食の歴史」企画展を見て

今日も名古屋地方は35.5度の猛暑日となった。8月も9月も一滴の雨も降らない状態である。台風が近づいていて明日の午後から雨だとか。
 そんな猛暑の中、今日は名古屋女子大学「越原記念館」における「料理本にみる食の歴史」企画展に行って来た。
同展は来年2月18日まで開かれている。
 江戸・明治・大正・昭和初期の様相と食の風景を、それぞれの料理本で探る企画展である。

 黒岩比佐子著『食道楽の人 村井弦斎』(岩波書店)を読み終わった後の余韻が残る中、その原本が展示されていると言うので興味を持って出かけた。

『食道楽』の人 村井弦斎
黒岩 比佐子
岩波書店

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 日本料理の基礎は室町時代には確立していた。そのころの料理書は包丁流派による秘伝とされた料理の式法を伝えるものだった。江戸時代に入って料理の知識や技術を紹介する一般料理本が出版されるようになった。天明二年(1782年)『豆腐百珍』をさきがけとして百珍物の流行と文人趣味と遊びの要素を取り入れた八百善の『料理通』など、文化・文政期に江戸の料理文化は爛熟期を迎えた。
 その後、明治時代に入り文明開化の中で、西洋・中国料理書が盛んに出版されるようになった。
食道楽(上) (岩波文庫)
村井 弦斎
岩波書店

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食道楽 (下) (岩波文庫)
村井 弦斎
岩波書店

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明治のグルメブームを作ったのは日露戦争直前の明治35年1903年豊橋市出身の村井弦斎が報知新聞紙上に小説『食道楽』を連載。同年から翌年にかけて春夏秋冬の四巻分を刊行。明治38年には四巻合本の『食道楽』を刊行。
 大食漢の文学士大原満と料理上手なお登和嬢の恋愛と絡ませた料理小説である。当時としては珍しい食材、チーズやバターを使い、シチューやライスカレーなどの外国料理のレシピつきでベストセラーとなり、食を楽しむという社会的グルメブームを巻き起こした。
 ただし、作者の村井弦斎はこの小説をたんなる料理本としてはおらず、現代注目されている「食育」を説き、女子教育や家庭教育論などを広く説く啓蒙小説として刊行したのである。
 名古屋女子大学創始者である越原春子さんの19歳のときの日記「美濃少女(おとめ)」にはこう書かれていてほほえましい

  明治37年「(1904年)4月
  『食道楽』を読んだり、筆記したりして夜になって「玉子の雪」(淡雪)とカステラをつきってみたけれど、中々うまくいかないものです。出十銭 さとう代

 とあって、当時19歳のお嬢さんが小説『食道楽』を読み、筆記し、実際に料理してその感想を書いていることがわかった。地方でもこうして村井弦斎の『食道楽』は愛読されていたことがわかろうというもの。

名古屋女子大学創始者ご夫妻
 名古屋女子大学は大正4年(1915年)、越原和(こしはらやまと)、越原春子により設立「された。春子は「名古屋帯」の草案者で、日本で女性参政権を得て後、はじめて女性の国会議員となった人である。

 この企画展を見て思ったのは、江戸時代は食文化が豊かであったことを知った。それまでは今の飽食の時代と違って庶民は米と漬物と魚ぐらいを食していたと思っていたが、すでに「うなぎのかばやき」が出現していて、愛知県の半田市からミツカン酢が江戸にはいったことから寿司が広がったこと。天ぷらなども食べていたことがわかった。

 次に明治42年には通信教育による料理テキストがあったことが注目に値する。
『家庭料理講義録』と題された料理本明治42年(1909年)出版された。出版元は株式会社東京割烹講習会である。会長に板垣退助伯爵夫人の絹子、顧問に大隈重信、評議委員を森鴎外などの著名人がその名を連ねている。
 通信は一年二期制で、会費は一ヶ月35銭。最後には卒業証書も授与。テキストのほか、受講生限定でエプロン、国産イースト菌・西洋・日本料理器具など調理関係のものまで通信販売した。
 日露戦争後から大正デモクラシー期にかけて、日本は産業革命を経て社会・家庭が大きく変化した時期である。女子教育が盛んになり、急速に家庭料理向けの実用的な料理本が出版されてきた。「通信教育」という新しい形を用いて全国各地に料理教育が進展していったことがわかる。

 この「料理本にみる食の歴史」企画展では村井弦斎の『食道楽』の原本を見ることができ、またこの本により社会的グルメブームを起こし、通信教育による家庭料理講義が広まったこと、それにともない女子教育の重要性が謳われるようになったことなど、「料理本」から食育、教育にいたるまで広く啓蒙されてきたことがみてとれて大変面白かった。