飛翔

日々の随想です

東京地検特捜部と足利事件と『悪人』

 栃木県足利市で1990年、四歳の女児が殺害された足利事件無期懲役が確定し、その後釈放された菅谷利和さんの再審第四回公判が21日にあった。
 取調べの仕方は今まで公開されなかったが当時のテープが公開された。

 東京地検特捜部と小沢一郎が巌流島の対決のようになってきた。最高裁長官を一般から採用するという民主党の考えに逆らうのか、土地を購入したというだけの事柄を政府の幹事長の奥方までひきずりだして事情聴取するという。また19年も前の帳簿の調査をする東京地検特捜部の目の色はすごい。
またせっかく事情聴取や取調べの過程を公開すべしという民主党の提案はこの特捜の調査とリンクするかのように、そして取引するかのようになし崩しになってしまったようだ。

 つまり、先にあげた菅谷さんの足利事件の取調べの公開がなかった当時のようになってしまう懸念が深まった。

 陪使員制度が始まったところで、法律とは無関係である素人が人を裁くということがどんなものか考える時代が日本にもやってきた。
 そこで今日は次の小説の書評を載せることにする。

殺人事件がどうやって起こったか、そして犯人は誰か?
 こう書くと何の変哲もないただの犯罪小説だと思うだろう。
 しかし、この小説はそんな類のものでないというのが最後まで読んで初めて気がつくのだった。

 殺人事件が起きた舞台は福岡市と佐賀市を結ぶ国道263号線、背振山地三瀬峠である。
 登場人物は短大を卒業し保険の外交員となった佳乃、裕福な旅館の息子で大学生の増尾圭吾、長崎市の郊外に住む土木作業員の祐一、紳士服の販売員の光代である。そして彼らを取り囲むように配置された友人や父母、祖父母などである。
 保険外交員の女性が殺される。
 彼女はその夜、モテモテ男の大学生とデートすると行って出かけたが相手は出会い系サイトで知り合った土木作業員の男。
 友だちにはみえをはって大学生とデートすると嘘をつく。
 このみえからでた嘘と現実の食い違いが殺人を招くことになる。

 殺人犯のそれからを追っていくうちに加害者と関わりあっていく女性たちをからめて話は加速していくのであるが、いつも視点は登場人物自身であるところがこの小説を常にニュートラルにしている。
 つまり誰が『悪人』かというきめつけるようなまなざしがないのである。常にその登場人物側から物語りは語られている。

 人は一つの事件が起きるとその結果から犯罪にたいする罪を判断しようとする。
 しかし、ことのあらましをあらゆる角度からみることなしに裁くことはそれこそ「罪」である。昨今のワイドショーや新聞の記事から我々は事件を知ったような気になる。しかし、それはほんの少しの情報から得た判断をもとにワイドショーの記者や新聞記者が記事にしたものであることを知るべきだろう。
 それを証拠にすぐ判断は二転三転する。
 そしてそれにしたがって我々読者、視聴者の判断も二転三転するのである。
 昨日犯人だったものは今日は無実の人として「独占インタビュー」などと銘打って放映されたりする。そんなマスコミのあり方に一石を投じた小説ともいえよう。
 それと同時に我々の真実を見る力、判断力にもである。
 陪審員制度ができ単眼的物の見方、思考のありかたは大きな問題点となる。
 マスメディァに対する読者、視聴者の複眼的思考のレベルアップと批判精神を忘れてはいけないことも示唆している小説であった。
 また恋するチャンスも場もないまま、ただ無為に働いて一日が終わってしまう若者が出会い系サイトにアクセスする気持ちや、豊かでない暮らしの中、地道に生きていく人たちを丹念に描いていて、そうした視点から社会を見たとき、「豊かさ」と呼ばれるものの空虚さを描き出した作品でもある。

 「悪」というものの種はどこから生じるのだろうか。
 そして「悪人」とは一体どんな人をさすのだろうかを問う小説であった。
 殺された娘の父親の言葉:

 (今の世の中、大切な人もおらん人間が多すぎったい。大切な人がおらん人間は、何でもできると思い込む。自分には失うものがなかっち、それで自分が強うなった気になっとる。失うものがなければ、欲しいものもない。だけんやろ、自分を余裕のある人間っち思い込んで、失ったり、欲しがったり一喜一憂する人間を、馬鹿にした目で眺めとる。)

 心にドンとこたえる言葉だ。